知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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存在の否む働きとしての無:ハイデガー「ヒューマニズムについて」


無についてのハイデガーの議論は非常にユニークだ。西洋の哲学の伝統にあっては、無とは存在の反対として、存在しないこと、それも、中途半端に「ない」ことをではなく、全くないこと、なにもかも存在しないことを意味する。存在の反対と言うより、存在の欠如といってよい。あるいは非存在とも言われる。ところがハイデガーは、無は存在の反対として、まったく存在と関わりをもたないのではなく、存在の一つのあり方なのだという。ハイデガーによれば、無というものが存在するということになる。なぜなら人は、存在しないものを思索することはできないからだ。ところが人は無について思索する。ということは、無もまた存在の一つのあり方だからだ、というわけである。

無というものが存在するとして、ではその存在構造はどうなっているのか。ハイデガーによれば、存在のなかには無傷の健全なもののほか、憤怒に燃えた悪事もある。それは存在そのものが争いを含んだものだからだ、とハイデガーは比喩的な言い方をする。争いを含んでいるからこそ、無傷の健全なものを肯定し、憤怒に満ちた悪事を否定する働きがうまれる。無とは、この否定の作用から生まれるのだ。つまり無とは、存在の欠如としてのある自立的ななにものかではなく、否定の作用、つまり否む働きから生まれてくる。無とは、否定の相関者ということになる。

こう言うと、無とは人間の認識の相関者と思われがちだ。否定の作用そのものが、人間の判断を想起させるからだ。人間の判断の結果として何者かが否定される。それが否定態としての無である、と言えないこともない。こういうと、存在と無の対立は、人間の判断作用である肯定と否定と相関的な関係にあるということになる。だが、ハイデガーは、否定の働きを、人間の判断の働きに限定しない。否定はむしろ、存在そのものの働きなのだ、という言い方をする。人間が否定するのではなく、存在そのものが否定するというわけである。

ハイデガーは言う。「現存在が否む働きをするのは、けっして、主観性としての人間が拒否の意味における否むことを遂行するかぎりにおいてではない。むしろ、現-存在が否む働きをするのは、そこにおいて人間が存在へと身を開き-出で立つゆえんと本質としての現-存在が、それ自身、存在の本質に帰属しているかぎりにおいて、なのである。存在が、否む働きをするのである~存在として」(渡辺二郎訳)

「存在が否む働きをする」というと、奇異に聞こえるが、必ずしも特異な考え方ではない。ヘーゲルは、存在者そのもののうちにこの否定の作用を認めていた。ヘーゲルのいう否定性とは、人間の認識作用にも関わってはいるが、その本質的なあり方は存在者そのもののうちに根ざしている。存在者は、人間の目の前に一気にその全体像を示すわけではない。たとえば、一軒の家の場合、前から見た像と後ろから見た像、さらに横から見た像とでは互いに異なるにもかかわらず、一つの家のそれぞれの現れとして認識される。それは、人間の認識にとっては、家の全体像は一時に把握できず、段階的に把握しながらそれを総合してゆくという作用を必要としていることを意味し、存在者にとっては、無媒介に人間の前に全体像を示すのではなく、段階的に、しかも媒介された形で示さざるを得ないという事情を物語っている。この場合に、前面から見た像だけが、その家の本質であるとは言えないわけで、その言えないことが、否定性という形をとる。人間の認識は、この否定性を通じながら、段階的に高まっていくようにできているのであり、またそれは、存在者が一時にその全体像を開示できないという事情に基づいている。

これは、ヘーゲルの弁証法の基本的な考え方だが、ハイデガーの否む働きもまた、それと強いかかわりがあると考えてよい。ヘーゲルが否定性と呼んだものを、ハイデガーは否む働きとしての無と呼ぶわけである。だからハイデガーの無は、存在の外側にあるものではなく、存在の内部に組み込まれているということになるわけだ。無もまた存在のひとつのあり方なのである。それゆえハイデガーは次のように言うのである。「存在のうちで否む働きをする面が、私が無と呼ぶものの本質なのである。思索は、存在を思索するからこそ、思索は、無を思索するのである」(同上)

もっともハイデガーの無とヘーゲルの否定性とがパラレルな関係にあるということではない。ヘーゲルの否定性は、人間の認識が次第に精度を増し、それに伴って存在者が段階的に全体像を示してゆくうえでの、ある種の媒介項のような役割を果たしているわけだが、ハイデガーの場合には、存在のなかの憤怒に燃えた悪事が、否む働きを促すというふうに言っている。悪事を否むのであるから、ヘーゲルのように、それを通じて人間の認識が多面的・複層的になってゆくというプロセスとは結びつかない。悪事は低い次元として、高い次元のうちに止揚されてなお保存されるわけではない。一方的に切り捨てられるだけである。それによって人間の認識がどうなるか。ハイデガーは詳しくは言わない。

ところで、存在と無をめぐる議論といえば、サルトルの「存在と無」が思い浮かぶ。だが、ハイデガーは、サルトル批判を眼目とした「ヒューマニズムについて」のなかで、サルトルの無についての議論には全く言及していない。サルトルの無は、端的に言えば、意識のことである。意識はそれ自体としては、なにものでもない。それがなにものかになるのは、意識の志向性としての働きが、具体的な対象を持つ場合である。この対象には、他者も含まれるし、自分自身も含まれる。ただ意識そのものとしては無である。この無を舞台にして、存在のドラマが繰り広げられる、というような構造に、サルトルの議論はなっている。要するに、サルトルの無としての意識は、ロックのタブラ・ラサの子孫のようなものなのである。ロックのタブラ・ラサが、何も書かれていないキャンバスとして、そこにさまざまなものを絵柄として受け入れるように、サルトルの意識は、無という舞台として、そこでさまざまな存在者がドラマを繰り広げる、ということになるわけである。

こうした考え方が、ハイデガーの議論と何らのつながりを持たないことは、容易に見てとれる。だからハイデガーは、サルトルのヒューマニズムには批判の矢を向ける一方、存在と無についての議論は無視したのだと思う。





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