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ハイデガー「存在と時間」の構築:木田元のハイデガー論


ハイデガーの「存在と時間」が未完成なのは周知のことである。ハイデガーはこの書物の序説第二章第八節で、この著作の全体像を示しているが、それは二部からなり、それぞれの部が三篇構成になっていた。このうちハイデガーが完成させたのは、第一部の第二編まである。つまり当初構想されていた全体像の三分の一が書かれたに過ぎず、残りの三分の二は途中で放棄されたということになる。ハイデガーに生涯入れ込んだ日本の哲学研究者木田元は、この書かれなかった部分について、ハイデガーが若しそれを書いたとしたらどのように書いただろうか、それをハイデガーの意図を忖度しながら、構築しようとした。あわせて、ハイデガーが何故それを書かずに放棄してしまったのか、その原因についても見極めたい。このような問題意識に導かれながら、この本を書いたということらしい。題名が「存在と時間」の構築となっているのは、木田のこのような問題意識をずばり現しているわけである。

「存在と時間」についてのハイデガーの全体構想を再現するためには、その手がかりがなければならぬが、幸いなことにそれはある、と木田は言う。「存在と時間」を書いた前後におけるハイデガーの講義や著作にその手がかりを求めることができると言うのだ。木田がもっとも重視するのは、「存在と時間」刊行直後に行った講義「現象学の根本問題」である。木田によれば、この講義は、「存在と時間」の中でハイデガーが示していた全体構想を、「存在と時間」とは全く逆の順序で展開したものだという。だからこれを注意深く読めば、全体構想のうち、「存在と時間」で書かれなかった部分の内容が類推できるというのである。

ここで、「存在と時間」及び「現象学の根本問題」の章立てを比較してみよう。まず「存在と時間」
  第一部 時間性へ向けての現存在の解明および存在についての問いの先駆的視界としての時間の解明
   第一章 現存在の予備的基礎分析
   第二章 現存在と時間性
   第三章 時間と存在
  第二部 存在時間性の問題を手引きとする存在論の歴史の現象学的解体の概要
   第一章 カントの図式論と時間論
   第二章 デカルトの「われ思う、われ在り」と中世の存在論
   第三章 アリストテレスの時間論

これに対して、「現象学の根本問題」の、当初構想されていた全体構想は、次のような構成になっている。「当初構想」というのは、この講義も途中で中断されているからである。
  第一部 存在に関するいくつかの伝統的テーゼについての現象学的批判的論及
  第二部 存在一般の意味についての基礎的存在論的問い、存在の基本的書構造と基本的諸概念
  第三部 存在論の学的方法と現象学的理念
このうち実際に行われたのは第二部の第一章「存在と存在者の違い」までで、それ以降は中断された。それはともかく木田は、この講義の構成が、「存在と時間」とは逆になっていて、講義の第一部は「存在と時間」の第二部にあたり、講義の第二部が存在と時間の第一部第三篇にあたると推測している。したがってこれらを「存在と時間」に付き合わせれば、存在と時間の全体像が見えてくるだろうし、それをもとに「存在と時間」を構築することが出来るだろうと踏んでいるわけである。

ハイデガーは何故、「根本問題」の講義を「存在に関する伝統的テーゼ」についての検討(西洋哲学の歴史的な再検討)から始めたのか。木田が推測するには、ハイデガーはもともとアリストテレス以来の西洋の伝統的哲学の批判的研究を踏まえて、存在についての彼なりの思想を確立した。そしてそれに基づいて、西洋哲学全体の歴史を解体しようとした。ハイデガーはこのアイデアをニーチェから得たと木田は推測するのだが、それはさておいて、この解体を基礎付ける視点が必要になるわけで、その視点の根拠付けとして現存在の基礎的な分析というものがある。「存在と時間」という著作は、この現存在の基礎的分析をまず行い、それに基づいて、ハイデガーが哲学の基本的な概念とする時間性を明らかにした上で、それを踏まえて西洋哲学全体の歴史を解体しようとした。ところがその試みがうまく行かなくて、「存在と時間」を中断させた。ところがその後、そもそもの始まりである西洋哲学の歴史の解体からことを始め、そこから遡及的に現存在の分析に向かったほうがやりやすいのではないかと思いなおし、「根本問題」での試みにつながった、と木田は見ているわけである。

以上を通じて見えてくるのは次のようなことである。ハイデガーは、西洋哲学が哲学の本来の課題である存在への問いから逸脱してきた、と考える。それはアリストテレスから始まったのだが、それをハイデガーは形而上学と呼ぶ。その形而上学を全面的に解体して、哲学を正しい本来の姿にもどすことが自分の課題だ。それについては、存在の本質である(とハイデガーが考える)時間性を究明しなければならない。時間性が究明されることによって、存在はその本来の姿、つまり生成する自然として捉えられるようになる。この生成する自然というのは、ソクラテス以前のギリシャの始原の思索家たちが抱いていた思想だ。そうした思索家たちに対して、プラトン・アリストテレス以降の哲学者たちは、存在をゆがんだかたちで捉えてきた。だから、存在をめぐる本来の問いに立ち戻る為には、ソクラテス以前のギリシャの思索家たちへと回帰せねばならない。ハイデガーはこう考えて、アリストテレス以来の西洋哲学を全面的に解体しようとした。そしてその準備作業として現存在の基礎的分析を行った。「存在と時間」は、この現存在の基礎的分析で中断してしまい、そのためにこの本は、現存在の実存について分析した実存主義の哲学だとする誤解も生まれたが、ハイデガーの本来の意図は、新たな存在論にもとづく西洋哲学の解体にあったのだ、と木田は受け取るのである。

プラトン・アリストテレス以来の西洋の形而上学は、存在を人間の製作行為に定位して捉える。人間がものを制作するときには、心のなかでそのもののイデアが先行していなければならない。制作とはこのイデアを質量のうちに実現することである。ここでイデアはそのものの本質存在と呼ばれ、材料としての質量が事実存在と呼ばれるようになり、そこから本質が実在に先行するという転倒した考え方が成立する。形而上学というのは、この転倒の上にたった倒錯した思想なのだ、というのがハイデガーの主張である、そう木田は見る。だが本来の存在は、本質存在と事実存在に分裂する前の生き生きとした全体的な存在である。本質存在が、事実存在から遊離して、静止的で超越的なものであるのに対して、本来の存在は、生成するダイナミックなものである。それを生成する自然といってよい。このような生成するものとしての存在概念にもとづいて、あらたな存在への問いをたてなければならない、そうハイデガーは主張するのだというわけである。

だがハイデガーがこの生成する存在という概念を前面に持ち出すのは、かなり後のことであって、「存在と時間」を書き、「現象学の根本問題」を講義したときには、まだその考えは煮詰まっていなかったようである。そのことが存在論としての「存在と時間」を中断させた最大の理由ではないか、どうも木田はそう理解しているようである。





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