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芸術としての力への意思:ハイデガーのニーチェ講義


ニーチェの思想の中核概念を、ハイデガーは力への意思として捉えた。力への意思とは、ニーチェにとっては、生命ある存在者、究極的には人間についての規定性である。それをハイデガーは、力への意思は存在者の本質的なあり方、つまり存在者の存在そのものとして捉える。だが、ハイデガーのいう存在者とは、そもそも人間がこの世界で出会うあらゆる存在者をいうのではないのか。ハイデガーはピュシスという言葉を好んで使うが、この言葉は存在者の全体というニュアンスで使われている。そこには当然現存在としての人間も含まれるが、その人間が世界で出会うあらゆる存在者(その中には当然自然や歴史も含まれる)をさしていたはずだ。だがハイデガーは、ニーチェに依拠しながら、力への意思が存在者の存在の本質だと言うことによって、存在者を生あるもの、ひいては人間という存在者に限定しようとしている。そのことの弁明として、ハイデガーは、ニーチェの次のような言葉を引用する。「何か死んだものが、どうして<存在する>といえようか」

これは、ハイデガーの従来の立場から大きく逸脱しているように見える。「存在と時間」におけるハイデガーは、現存在としての人間を手掛かりとしながらも、人間を含むあらゆる存在者の存在の意味を問うていたはずだ。人間は、議論の手がかりとして、基準としての機能は果たしていても、人間だけが存在者の名に値するとは、ハイデガーは言っていなかった。ところが、ニーチェを論じる文脈のなかでは、あたかも人間だけが存在者の名に値すると言っているかのように聞こえる。

人間も存在者の一つであるから、人間を分析することによって、存在者の存在の意味の一端が明らかになることはあるだろう。しかし、そのことから、人間だけが存在者の名に値するのであるから、人間を分析することによって、全体としての存在者の意味が明らかになるとは言えないのではないか。ところが、ニーチェを論じる文脈においては、ハイデガーは、人間の存在の本質を分析することは、全体としての存在者の存在を解明することを意味する、と主張しているように聞こえるのである。

ニーチェの立場に立ってみれば、世界は人間の存在に依存するものであり、その限りでは人間が生み出したものであると言ってよい。したがって人間を分析すれば全体としての存在者(つまり世界そのもの)の存在が明らかになる、と言えなくもない。こうしたニーチェの見方は、ショーペンハワーの「意思と表象としての世界」のアイデアを引きずっているのだと思うが、それ以前に、ドイツ哲学の伝統を踏まえたものだ。ドイツ哲学といえば、ドイツ観念論ということになるが、ドイツ観念論の特徴は、世界を意思とか絶対知の現れとして捉えることにある。ニーチェが存在の本質は力への意思だと言う場合、それが人間の精神作用を意味している限りで、ドイツ観念論の伝統の上に立っているわけである。だから、ニーチェは何も突飛なことを言っているわけではない。

ところが、ハイデガーがニーチェの思想を自分の思想に接ぎ木すると、ニーチェは何か突飛な主張をしているように聞こえてくる。それは、ニーチェ自身は存在者の中から人間を取り上げて、人間の存在の本質を議論しているつもりのところが、ハイデガーのニーチェ解釈をくぐると、ニーチェは人間を以て存在者の全体を代表させ、そのことで、人間を分析することが、全体としての存在者の存在の意味を問うことだと言っているように聞こえるからである。力への意思という概念にしても、それが人間の生き方の本質だと言われる限りは、何ら違和感は生じない。ところが、それがあらゆる存在者の本質だと言われると、途端に違和感が生じてくる。その違和感は、ハイデガーがニーチェを風船玉のように膨らませすぎているのではないかとの疑問からくる。ニーチェは風船玉などではなく、癇癪玉といったほうがふさわしいのではないのか。

冗談は脇へ置いて、ハイデガーのニーチェ講義の第一弾である「芸術としての力への意思」は、ニーチェの未完成の主著「力への意思」第三書第四章へのハイデガーなりの注釈である。第三書は四つの章からなり、それぞれ認識としての力への意思、自然における力への意思、社会及び個体としての力への意思、芸術としての力への意思、と題されているのだが、ハイデガーはこの四つの章の最後のものから、力への意思についての注釈と彼なりの意見を陳述しているわけである。

最後の章である「芸術としての力への意思」の注釈からニーチェ講義を始めることについて、その理由をハイデガーはおよそ次のように述べている。力への意思とは根源的な激情をさすが、その激情がもっとも純粋にあらわれたものが芸術である。だから芸術を分析することで、力への意思がどのようなものであるか、もっともわかりやすいかたちで解明されるであろう、と。

ハイデガーによって解釈されたニーチェは、芸術を感性的な営みとして、理性的な営みである知と比較しながら論じている。知の営みについては、それがイデアをめぐる議論に集約される限りで、プラトン以来の形而上学の伝統を引きずっているわけだが、感性的な営みとしての芸術については、プラトンによって低次元のものだと認定されて以来、哲学によって正面から取り上げられることがなかったので、哲学の伝統を引き合いに出すわけにもいかない。そこで芸術をめぐるニーチェの議論はかなりユニークなものであるし、それに注釈を加えるハイデガーのやり方も哲学の伝統を踏みだしている。要するに、これもかなりユニークである。

ニーチェの目的は、価値の転倒をはかるという戦略にとって、芸術が知にまさることを証明することがポイントになると考えて、芸術と知とを対比させながら論じつつ、最後には知に対する芸術の優位を証明し、それを通じて従来の価値の転倒と、ニヒリズムの克服を展望することにある。

そんなわけで、芸術をめぐるニーチェの議論は、感性的な色彩を帯びる。それをニーチェは芸術の生理学と言っているのだが、その生理学とは、人間の感性的な要素に着目した言葉であって、別に世に言うような分科科学としての生理学とは縁がない。

このいわゆる生理学についてのハイデガーの注釈は微細なものであるが、ここでは細部には触れない。一つ触れておきたいのは、陶酔についてのニーチェのとらえ方と、それについてのハイデガーの受け取り方である。ニーチェは、芸術とは本質的には創造であると言う。しかして創造とは、陶酔を伴う行為である。というより、創造そのものが「ひとつの爆発的状態」としての陶酔そのものなのであるとニーチェは言うのだ。「美は陶酔において開示される。私たちを陶酔感へと誘い入れるものが美なのである・・・創造の本質とは何かと問うならば、私たちはこれまでの考察にもとづいて、こう答えることができる。それは作品という形での美の創造的産出である」(薗田宗人訳、以下同じ)

ハイデガーはまた、ニーチェが創造のうちに子供を創造することを含めて考えていることも紹介している。「ニーチェは、芸術家であってしかも病気でないというのは不可能であるとも言う。また彼が、音楽を創造すること、すなわちおよそ芸術を作ることは、子供をつくることであると言うとき、それは、<陶酔の最古のもっとも根源的な形式は性の陶酔>である、というあの陶酔の特徴づけにのみ呼応するものである」

このようにニーチェは、芸術における創造の行為が、人間の生殖をモデルにしていると考えているように聞こえるのだが、本当にそうだとしたら、ニーチェの言う力への意思とは、生殖行為において示されるような、爆発的な陶酔の感情にその根源を有しているということになる。だがそうしたニーチェの考え方を、ハイデガーも受け入れたうえで、存在者の存在の本質とは、子どもを作ることだと考えているかといえば、それは明らかではない。ハイデガーは、力への意思を強調する割には、性的なことがらを話題にしたがらない。それはハイデガー流のエチケットの現れということなのか。





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