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転倒されたプラトン主義:ハイデガーのニーチェ講義


ニーチェは、最初の仕事への準備中に作成した覚書のなかで、「私の哲学は、転倒されたプラトン主義である」と書いている。ハイデガーは、この言葉を手掛かりにして、ニーチェによるプラトン主義の転倒について語る。その場合問題となるのは、ニーチェが「転倒されたプラトン主義」という言葉で何を意味していたのか、ということである。プラトン主義の一変種としての転倒されたプラトン主義なのか、それともそもそもプラトン主義を転倒することで、プラトン主義とは全く異なった主義をイメージしているのか。これはどうでもよい区分ではない。どちらをとるかによって、百八十度議論の方向が違ってくるような、本質的な区分だ。だから、「転倒されたプラトン主義」について語る際には、この区分をきちんと押さえておく必要がある。

その前に、ニーチェが「プラトン主義」という言葉で何を意味しているのか、それを見ておく必要があるだろう。プラトン主義とは、ごく単純化して言えば、イデアを存在の本質とみる考え方である。超感性的なものとしてのイデアが真に存在しているものであって、感性的なものとしての現象はイデアの模造にすぎない。それは仮象であるから、真実の存在としてのイデアより劣るものである。だから我々は真理としてのイデアを尊重し、仮象としての感性的なものを軽蔑するべきである、というのがプラトン主義の本質的な考え方である。こうしたプラトン主義は、キリスト教的な世界観にも反映している。プラトンにとっての最高のイデア、あらゆる存在の根源としてのイデアを神と置き換えればキリスト教的な世界観が成立する。キリスト教は、ニーチェによれば、「大衆のためのプラトン主義」に他ならない。

それゆえ、プラトン主義の転倒は、キリスト教を中心としたこれまでの世界観を転倒させることを意味する。ここからニーチェの根本概念のひとつ「価値の転倒」とその結果としての「ニヒリズム」が出てくるわけである。ニーチェのプラトン批判はだから、ヨーロッパ世界の価値体系への大胆な挑戦を意味している。それはプラトンという一哲学者の批判にとどまらず、西欧的な思考形態全体への挑戦という意味を持っている。何故なら西欧的な思考形態とは、ニーチェによれば、俗物のためのプラトン主義に他ならないからである。

プラトン主義の転倒の具体的な内容は、感性的なものを非感性的なものより上位とする見方のことである。感性的なものは芸術によって代表される。一方非感性的なものは真理によって代表される。したがって、プラトン主義の転倒によってもたらされるのは、ニーチェによれば、芸術が真理より価値がある、ということである。ここで「芸術より真理が価値があるとは、すなわち、<感性的なもの>としての芸術が超感性的なものよりも存在的である、ということである」(薗田宗人訳、以下同じ)。だが、と今度はハイデガーが問題を提起する。「感性的なものがより存在的と主張されるとき、<存在>とはいったい何であろうか。ここで<感性的なもの>とは何をいうのであろうか」

ハイデガーがこのように言うには、それなりのわけがある。ニーチェは、プラトン主義を転倒することによって、従来の哲学の考え方をひっくり返すのだと主張するのであるが、哲学的な言葉遣いは依然として従来のままなのだ。たとえばニーチェは、存在という言葉を従来と同じ意味で、つまりプラトン的な意味で使い続けている。存在とはニーチェにとって相変わらずイデアによって体現されたものなのである。また、芸術によって代表される感性的なものを、仮象と言い続けている。その結果、「仮象、妄像、幻惑、生成及び変転への意思は、真理への意思、現実と存在への意思よりも深く、<より形而上学的>{すなわち存在の本質によりふさわしい}である」と言ったり、「生きるためには、私たちは虚偽を必要とする」と言ったりすることになる。この場合「虚偽」とは、真理に対立するものとしての仮象と同義である。

また、存在が永続性を本質としている限りにおいて、それは真理と同義とされる。そのような意味での真理とは、「ある特定の生物種がそれなしには生きることのできないような種類の誤謬である」とされる。なぜ真理が誤謬と同意義なのか。普通の考え方とは相いれないこうした主張も、ニーチェの言葉の使いかたの混乱に根差している。ニーチェはどうも古い皮衣に新しい酒を入れたおかげで、酒の風味を損なっているところがある。

ともあれ、ニーチェの言い方は、プラトンの言葉を使ってプラトン主義の転倒について語るために、言い方は常に逆説的になる。プラトン主義の転倒は、感性的なものと非感性的なものとの上下関係をあべこべにし、そのことで現実と仮象との価値の逆転をも生み出すわけだが、そうだとするなら、ニーチェは、感性的なものとしての仮象こそが真理だといえばよいところを、そうはいわずに、仮象とは人間が生きるうえで必要な虚偽なのだというような、ひねった言い方をすることになる。そこに読者は混乱を感じ、それこそ幻惑させられてしまうのである。

ところでハイデガーは、ニーチェによるプラトンの転倒を、真理と芸術とについてのプラトンの説をひっくりかえすことを通じて行っている。真理はイデアによって代表され、芸術はそのイデアの模倣であるとするのがプラトンの主張であるが、これをニーチェはひっくりかえして、芸術こそが真理よりも人間の生きたかにとって根源的なのだと主張する。その辺の議論については別途取り上げたいと思う。





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