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ミメーシスとしての芸術:ハイデガーのニーチェ講義


プラトンは、ミメーシス(模倣)こそがあらゆる芸術の本質である、と言った。何を模倣するのか。イデアである。通常、模倣されるものは模倣するものより先立ってある。先立ってあるとは、序列で言えば上位にあるということだ。したがってイデアが体現する真理はプラトンにとって、芸術より上位のものということになる。ところがニーチェは、芸術は真理よりも上位にあると言った。そう言うことで、芸術と真理をめぐるプラトン主義を転倒しようというわけである。

このことについて議論を展開する前に、まずプラトンのミメーシス論の特徴を見ておこう。プラトンの言うミメーシスとは、芸術にとどまらない。神による自然の現象の発現も、手工職人による制作も、画家の芸術活動もみな、イデアの模倣としてのミメーシスである。神は、本質を発現せしむるものである。その本質とはイデアという形をとるが、そのイデアを創作したのは神である、とともにそのイデアにかたどって個別の自然現象を発現せしむるのも神である。自然現象は、他者の手をかりずに自分自身の内奥から(自ずから)発現するように見えるが、それがイデアを淵源として発現する限りにおいて、イデアの模倣としてのミメーシスと言えるのである。

手工職人は、制作に先立ってそのもののイメージを心の中に抱いていなければならないが、そのイメージがイデアである。職人はそのイデアに基づいて、具体的なものを制作する。例えば寝台の制作の場合には、寝台のイデアに基づいて具体的な、実際に使用される寝台を出現せしむるわけである。これに対して画家は、寝台を描くにあたっては、実際に使用される寝台を出現せしむるわけではない。彼の出現せしむるのは、寝台のイメージに過ぎない。それは、職人の出現せしむる寝台よりも、さらに低い次元の(イデアの)模倣に過ぎない。

そんなわけで、プラトンは芸術を、もっとも低次元のミメーシスととらえ、そのことで真理からもっとも遠いと位置付けた。というのもプラトンにとっての真理とは、ほとんどイデアと同義だからだ。(ハイデガーを通じて)プラトンは言う、「芸術は真理からはるか離れておかれている。芸術の制作するものは、イデア(ピュシス)としてのエイドスではなく、『ただのエイドローン』である。それは、純粋な相の映像にしかすぎない。エイドローンとは、小さなエイドスの意であるが、ただ量的に小さいだけでなく、顕現する仕方において僅少なエイドスを指している。それはもはや、存在の真正なる現われの残渣でしかないのであり、それも異質な領域、色彩か、あるいは呈示のための他の材料のなかでかすかに現われる」(薗田宗人訳、以下同じ)

このようにプラトンは、芸術を真理からもっとも遠く離れた低次元のものと捉えた。それに対してニーチェは、芸術を真理よりも高次元で上位のものとして捉える。しかのみならず、芸術と真理の葛藤ということを問題にする。葛藤というのは、対等のもの同士の対立を意味しているから、芸術を真理より低次元のものと考えるプラトンには考え及ばないことである。それをニーチェはどのように考えているのか。

芸術と真理が葛藤の関係にあると言うからには、この両者が同じ位階に属することを証明しなければならない。同じ位階に属するとは、同一のものに共属することを意味する。では芸術と真理が共属するものとは何か。それは「存在と存在への連係のみである」とハイデガーを通じてニーチェは言う。「美と真理は、両者ともに存在に、しかも存在者の存在を露呈する仕方において相連関している。真理とは、哲学の思惟における存在露呈の直接的な仕方、つまり感性的なものに関与せず、それから前もって遠ざかった仕方である。それに対して美は、感性的なものに介入し、それを通して私たちを捉え、存在へと魅了する。ニーチェにとって、もし美と真理が葛藤関係のなかに捉えられるとすれば、両者は前もって一者のなかに共属するものであらねばならない。この一者とは、ただ存在と存在への連係でのみありうる」

この葛藤の結果として生じるのは、ニーチェにとっては、芸術の勝利である。そのことで、芸術は真理よりも上のものであり、感性的なものが非感性的なものより上位だということになる。ニーチェにとっては、感性的なものこそが、真なるものであり本来的存在者となるのである。もっともこのことをニーチェは、彼特有の言い方で、「転倒を経たあとには~これは公式的に容易に答えを出しうる~感性的なもの、見せかけの世界が上位に、そして超感性的なもの、真の世界が下位にくることになる」といった具合に、逆説的な言い方をしているのであるが。

こう言うとニーチェは、プラトン主義を転倒することで、従来の価値の序列をただひっくり返しただけであり、その結果従来下位だったものが上位に入れ替わり、すべての秩序があべこべになっただけだと思われないでもない。もしそうだとしたら、ニーチェによるプラトン主義の転倒は、底の浅いものだと言わねばならないだろう。と言うのも、真理と言い芸術と言い、また感性的なものと言い超感性的なものと言っても、それらの内実はプラトンの提示したままの内包を持ち続けており、その意味では、プラトン主義の土俵にとどまっているにすぎないからだ。プラトン主義を転倒して、さらにそれを乗り越えるためには、プラトン主義そのものから自由にならねばならない。

そのことはニーチェも十分に心得ていた、とハイデガーは言う。というのもニーチェは、次のようにも言っているからだ。「われわれは真なる世界を排除した。いかなる世界があとに残ったか。おそらくは見せかけの世界が・・・だがそうではない。真なる世界と共に、私たちは見せかけの世界をも排除したのだ」。こう言うことでニーチェが意図しているのは、プラトン的な世界観そのものを無化してしまおうということだろう。ということは、プラトン主義的な用語も排除しなければならない。プラトン的な世界とは異なった世界を描くには、プラトンの言葉に囚われていていてはならない。

しかし、ニーチェがどの程度、プラトン的な世界から遠ざかり、そのことを言い現わすのに、いかにプラトンとは異なった言葉を使っているか、そのことについては心もとないと言わざるをえない。ニーチェは相変わらず、プラトン的な言葉遣いに引きずられながら、自分の新しい思想を語ろうとするので、どうしても逆説的な言い方になってしまうのである。

ともあれニーチェは、プラトン主義を転倒することで、プラトンとは全く違う世界をイメージしたとは言えよう。それはどんな世界か。すくなくとも感性的なものと超感性的なものの対立、真理と芸術との葛藤が問題にならないような世界。つまり、超感性的なものとか真理とか言われるものが、何らの意味を持たなくなり、この世に存在するものは、従来の言葉で言えば感性的なものとか芸術とかいうことにはなるが、実質的にはそれしか存在しないような世界、したがってプラトン的な対立が意味をなさなくなるような世界だということである。「感性的なものは、もはや<見せかけのもの>、暗くされたものではなく、それのみが現実的なもの、つまり<真なるもの>である」ということになるわけである。

ニーチェはまたこうも言う。「つまり私は、<仮象>を<現実>に対立せしめるのではなく、むしろ逆に仮象を現実として、つまり、空想的な<真理の世界>への変造に逆らう現実として把捉する。この現実に強いてひとつの名称を与えるならば、それは<力への意思>であろう。これは、捉えがたく流動的なそのプロメテウス的本性からではなく、内面から記述した名称である」

以上を踏まえてハイデガーは、ニーチェの意図を次のように整理して見せる。芸術とはプラトン的な意味での仮象であるが、その「仮象への意思としての芸術は、力への意思の最高の形態である。だが存在者の基本的性格、現実の本質としての力への意思とは、それ自体生成することによってまさに自己自身であることを欲する、あの存在そのものである。こうしてニーチェは力への意思のなかに、存在と生成という古くからの対立を根源的統一として、ひとつに思惟しようと試みる。永続性としての存在は、生成をひとつの生々として存在せしめる、というのである。ここに<永劫回帰>思想の根源が示されている」





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