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認識としての力への意志:ハイデガーのニーチェ講義


ハイデガーのニーチェ講義第三講「認識としての力への意思」は、一読しただけではわかりにくい構成になっているとの印象を受ける。冒頭から始まり大部分は、力への意思としての認識についてのニーチェの議論を中心に展開する。ニーチェによれば、認識とは真理を把握することであるが、その議論はハイデガーによれば、西洋の伝統である形而上学の枠内で展開されているということになる。形而上学とは、真理をイデアとして、つまり永遠普遍に存在するものと捉える一方、個々の現象を仮象、つまり真ならざるものとして捉える。このように真理と仮象との対立が西洋哲学の伝統的な立場なのであり、ニーチェもそれに従っているのだという主張を、冒頭から四分の三ほどをかけて行うわけだが、その後、議論は急展開して、真理と仮象との対立は実は偽の対立であって、この対立=区別は、乗り超えられるべき運命にあると主張されるようになる。その辺の議論は、実にあっさりとしていて、駆け足との印象を与えるのだが、それは、これについての詳細な議論を「芸術としての力への意思」においてすでに行っているとの前提があるからだと思われる。「芸術としての力への意思」においては、真理と仮象=見せかけの世界との対立は所詮は廃棄されるという主張でとどまってしまったわけだが、この講義では、そこから一歩進んで、真理と仮象との対立が乗り越えられたあとには、果たしてどんな事態が訪れるか、についての考察を行っている。常識的な考え方をすれば、真理と仮象との対立がなくなれば、真理そのものもなくなるだろうということになると思うのだが、ハイデガーの解釈を通じたニーチェは、そうではなく、真理は真理として残り続けると主張する。そこが読者にとって一番わかりにくい。そのわかりにくさがあるゆえに、この講義全体が、冒頭に言ったように、わかりにくい構成だとの印象をもたらすのだと思う。

真理についてのニーチェの考え方をハイデガーがどのようにとらえていたか、それがこの講義を理解するための大きなポイントになる。まず、ニーチェの真理概念を解明する手掛かりとしてハイデガーは次のようなニーチェの言葉を持ち出す。「真理とは、ある特定種の生物がそれなしには生きていけないような種類の誤謬である」(薗田宗人訳、以下同じ)。「真理は・・・誤謬である」とするこのニーチェの定義は非常に逆説的に聞こえるが、ニーチェは何を語るについても、逆説的になるところがあるので、そこは我慢して読み進むしかない。ともあれこの言葉でニーチェが意味しているのは、真理とはプラトンの言うような永遠普遍かつ自立したイデアのようなもの、つまり人間の営みとはとりあえず無縁の絶対的なものなのではなく、人間の営みに密接に関連する相対的なものなのだと言い、しかもある種の誤謬だというわけである。それは誤謬かもしれないが、しかし人間にとっては、それなしではすまされぬ不可欠の誤謬だということになる。つまり、人間が生きていくうえで必要不可欠な条件のようなものだというわけである。

誤謬という言葉はそれこそ誤解されやすい言葉であるが、そうした言葉をあえてニーチェが使ったのは、そうすることで、西洋の伝統に染みついている真理についての古い誤解を徹底的にあばきだしたいという意図があったためだと思う。その誤解とは、真理とは人間の認識がイデアに一致する、あるいは適合すると捉えることから起きるが、実はそうではなく、真理というものは、人間にとっての価値の評価なのだ、とニーチェは言うのだ。だから我々は、これこれが真理であると言うべきではなく、これこれがこうであると私は信じる、と言うべきなのである。真理とは、私とは別に存在するあるものではなく、私が真理としてみなす事柄なのである。この事柄は、わたしにとって堅固な永続性を持つように思われるし、またそうあらねばならぬ性格をもっているから、それは存在者としての性格を持たされる。「価値評価としての真理、すなわち・・・と見なすこと、・・・として存在していると見なすことたる真理は、存在そのものの本質連関にある。真なるものとはすなわち、存在的と見なされたもの、かくかくしかじかに存在すると見なされたものであり、存在的と受け取られたものである。真なるものは存在者である」

ここで、「真なるものは存在者である」と言われる場合の存在者とは、永続的で確固とした存在性格を持つものことを言う。そう言うとプラトンのイデアを連想させるようだが、たしかにニーチェの言う存在者は、イデアに似たところがないわけではない。両者の共通性は永続的で確固とした存在性格をもつことにある。だがニーチェの存在者は、あくまでも人間が存在的と見なしたものだけであって、人間を超えたところにあるわけではない。人間にとって有用性を持つものを、人間が真理とみなし、それに確固とした存在性格を持たせるのである。したがって真理と言い、存在者と言い、人間を離れてはありえないばかりか、人間にとっての有用性こそが真理の本質規定だとすることでは、人間が作り出したものと言ってもよい。そこが、イデアの自立性を強調するプラトンとは本質的に異なるところである。とはいえ、真理とその存在性格に、永続性と確固としたことを付与する点で、ニーチェはプラトンの伝統の上に立っている。人間はなんといっても、永続的で確固としたものを足掛かりにしたがる生き物なのだというわけである。

真理及び存在者にかかわる議論をハイデガーはこまごまと展開しているが、その詳細については別途触れることとして、ここでは、真理と見せかけの世界との対立についての、ハイデガーの議論を取り上げたい。ハイデガーの解釈するニーチェによれば、真理とは永続的で確固たる存在者であった。これに対して、生成流転する現象界は見せかけの世界とされた。この対立においては、真理が上位にあり、見せかけの世界は当然のこととして下位にある。ところが、この対立が逆転する。その逆転の根拠をハイデガーは「芸術としての力への意思」で分析して見せたのだが、それを踏まえて言うと、存在者の存在の本質は生成であるということになる。人間を含め存在者は、永遠普遍の固定したあり方を本質としているわけではなく、生成こそがその本質だということになる。ここで、存在者の本質規定は生成であって、存在ではないという逆説的な言い方がまた行われるわけだが、その生成を踏まえた人間の生き方というものは、芸術のうちに表現される。芸術というのは、人間のもつ力への意思を十全に発揮せしむる行為、それは単に生を維持するだけでなく、生を高揚させ、生が自己自身を乗り越える働きだということになる。

こうして、真理と見せかけの世界が逆転される。以前は堅固な存在者としての真理こそが人間にとって本質的に重要なものであり、それに対して生々流転する生の動きは仮象の世界として貶められていたが、いまや生々流転する仮象こそが本質的な重要性を帯び、堅固な存在者としての真理は価値をはく奪される。

ニーチェが表向き言っていることは、こうした真理と見せかけとの間の価値の逆転までであるように思える。ところがハイデガーは議論をさらに進め、ニーチェはこの価値の逆転を踏まえながらも、人間というものは永続的で確固とした存在性格をもった真理にこだわらざるを得ない傾向を持っているのだと強調する。つまり、価値の逆転によっていったんは価値はく奪された真理を、再び裏口からしのびよせ、人間にとってはやはりなくてはならぬものだと強調するのである。その辺の議論は、素材のニーチェ自身にわかりづらいところがあるのに加えて、ハイデガーが自己流にニーチェを解釈していることもあって、かなり錯綜した議論になっている。





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