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ニーチェの矛盾論:ハイデガーのニーチェ講義


矛盾律は、同一律及び排中律と並んで伝統的論理学の基本概念である。この三者は、同じことを別の言葉で述べたもので、要するにAというものをAとして認識するという、人間の認識構造のあり方を表現したものに過ぎない。AはAであるというのが同一律であり、AはAであってしかも非Aであることはできないというのが矛盾律であり、あるものはAであるかAでないかのいづれかであってそれ以外のものではないというのが排中律である。人間の認識はこの三つの格率に従うことにより、世界をありのままにとらえることができる。そう考えられてきたし、実際世界もそのとおりのあり方をしている、というふうに受け取られてきたわけだ。

こうした伝統的な論理学の考え方に真っ向から異議を唱えたのがニーチェである。ニーチェはとりわけ矛盾律に焦点を当てて、伝統的な論理学がある一定の立場に立っていて、その立場を離れると成り立たないということを主張した。その立場を単純化して言うと、論理法則とは生としての人間が自己保存のために作り出したものだということになる。したがってその自己保存という前提を外すと、矛盾率も意義を失うと主張する。つまり矛盾律を含めた論理学の格率というものは、世界の客観的な法則などではなく、人間が人間として生きる上で必要な仮定だということになる。

ハイデガーは、矛盾律についてのニーチェの次のような主張を引用する。「ここで矛盾することはできないという主観的強要は、ひとつの生物学的強要である」(薗田宗人訳、以下同じ)。この文章で主張されていることは、矛盾律は客観的な法則ではなく、主観的な強要であること、そしてその主観的な強要とは、ひとつの生きものとしての人間にとっての生物学的強要である、ということだ。つまり、「矛盾の命題は、<真に>、つまり現実に、相矛盾するものが同時に現実でありえないことをいうのではなく、ただ人間が『生物学的』根拠からそう考えるべく強要されていることを述べているに過ぎない・・・ちょうど特定の海生動物、たとえばクラゲが、獲物を捉える固有の触手を具えそれを働かせるように、<人間>という動物は、自己の環境に対処してその存立を確保するために、理性とその触手、矛盾律を利用するのである。理性と論理学、認識と真理は、人間と呼ばれる動物に見られる生物学的に制約された現象である」

矛盾律は主観的な強要であるから、必然性は持たない。「同じひとつのことを強要し、かつ否定することができないというのは、ひとつの主観的な経験命題であって、そこに表現されているのはいかなる<必然性>でもなく、ひとつの無能力であるにすぎない」

ニーチェがこういうわけは、世界というものは、それ自体としては、矛盾律が強要されるようなものではない。世界というものは矛盾に満ちたものなのだ、という確信があるためだ。にもかかわらず人間が、それをそのままに受け入れることができないのは、人間が無能力だからだ。すなわち、「あることがそれであり、かつ同時にそれの反対であることができないのは、私たちが『同じひとつのことを肯定し、かつ否定する』能力を持たないことによるというのである・・・矛盾律はそれゆえ、ただ『主観的』な妥当性のみを有し、ただ私たちの思惟能力の体制に懸っているのである。私たちの思惟能力にある生物学的変化が起これば、矛盾律はその妥当性を喪失するかもしれない。いや、それはすでに妥当性を失っているのではなかろうか」

矛盾律が妥当性を喪失するのがどのような事態なのか、それはとりあえず脇へ置いて、人間はなぜ矛盾律にこだわらざるを得ないようにできているのか、それを問題に取り上げたい。ニーチェによれば、世界というものはそれ自体では矛盾に満ちたものであるし、それに対応する形で、人間の認識も矛盾することはありうる。というより、虚心に世界に向かい合えば、自然と世界の矛盾に対応する形で人間の認識も矛盾しがちなのだ。しかし、それでは人間は、世界についての安定した像を結ぶことができない。それは人間にとって不都合なことである。何故なら、人間は世界が安定してそこにありつづけるという確信があってこそ、安心して世界の中で生きていくことができるからである。世界が矛盾に満ちていて不安定極まりなければ、人間は何をたよりに生きていけばよいのか、わからなくなって途方にくれることとなる。「人間は、同一のものについていくらも矛盾した主張を提唱することはできるが、そのような主張によって彼は自らの本質を見失い、なにかいかがわしいものになってしまう。彼は存在者そのものへの連係を喪失するのである」。

矛盾率はだから、人間が生きていくうえでの命法だというのである。矛盾率のおかげで我々人間は、何が同一の存在者としてあり続けるかについて確信を持つことができる。その確信があるからこそ、ことがら相互の関係について筋道立った考え方ができるようになり、未来の予測が立つわけである。このように、「矛盾率を命法として、つまり何が存在的と見なされるべきかを述べる命法として捉える解釈は、真理をひとつの真-と-見なすこととするニーチェの見解と符合している」。真-と-見なすことは、何が存在的であるかについての判断であるが、それと同じような意味で、矛盾率も何が存在的であるかを判断する根拠となる。

矛盾率が、存在についての判断を支えることに意義を有しているかぎりでは、またそのことを期待されるにとどまっている限りでは、人間にとって何ら否定的な意義は帯びない。要するに、伝統的な人間観に立つ限りにおいては、矛盾率も真理の概念も、それ相応の意義をもちうるわけだ。ところがニーチェは、そうした伝統的な人間観を乗り越え、いわゆる超人の理想を持ち出す。超人とは、力への意思を体現して、生の高揚へ向けて自らを超越してゆく存在者のことであるが、その超人においては、存在者の存在とか自らの存立確保だとかは、二義的なものとなる。超人にとって必要なのは、存立確保ではなく、たえず自己を乗り越えてゆくことである。そうしたあり方にとっては、存在よりも生成が問題となる。生成を通じて超人はより高いものへと自己を超えてゆくのである。

そんな超人レベルの人間にとっては、真理とか論理(矛盾率を含めた)とかは重要な意義をもたない。真理というのは、並みの人間にとって必要な「誤謬」なのであり、論理的な格率は人間の「無能力」の現れということになる。

要するにニーチェは、真理とか矛盾率といったものを、ニーチェのいわゆる俗物たちが生きるための知恵だと言っているわけである。それは俗物として生きる人間の、生きるための知恵であって、超人の目から見ればこざかしい約束事にすぎない。しかしこの約束事は、普通の人間にとっての主観的強要でありまた生物学的強要として、その生き方に深くかかわっている。したがってこれはこれで、並みの人間にとってはなくてはならぬものだから、彼らの生存を軽蔑しない限りは、それに一定の意義を認めてやらねばならぬだろう、というのがニーチェの立場だった。どうもそのようにハイデガーは捉えているようである。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2018
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