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ニーチェの正義:ハイデガーのニーチェ講義


ニーチェの正義論をめぐるハイデガーの議論には多少わかりづらいところがある。というのも、ニーチェ自身この正義という言葉をそう頻繁に使ってはおらず、また自分の思想の体系におけるその位置づけにもこまかく言及していないにかかわらず、ハイデガーがこの正義という概念をニーチェの思想の核心であるかのように提示しているからである。

ハイデガーが言うように、ニーチェが正義という言葉を持ち出したのは処女作の「悲劇の誕生において」だが、その後はこの言葉をほとんど使わず、晩年にいたって再び使い出した。それも、「力への意志」の準備作業としての草稿あるいはメモという形である。その使い方をよく見ると、他の重要概念と並ぶもう一つの概念というよりも、「力への意志」というニーチェの中心概念を、正義という言葉で置き換えたというふうに伝わってくる。

ただ単に「力への意思」という場合、これは生命体としての人間の本質的な存在様式という規定性が表にたつ。ところが、「正義」という言葉を使うことによって、「力への意思」をさらに限定し、生命体としての存続ではなく、生の高揚をめざしてたえず生成してゆく生命体の高次のあり方に対応するものだということを表すことができる。「正義」とはニーチェにとって「力への意思」の高次の段階を表す言葉だ、そうハイデガーは捉えたようである。

こうした推測は、ハイデガーの次のような言葉から裏付けられるのではないか。「まず私たちは、真と見せかけの世界という区別付けが排除されたとき真理はいったいどうなるのか、という問いを問いつつ、真理の本質をその極限まで思惟することを試みよう。その地点に立ってはじめて、この極限的なもののなかで『正義』の思想が不可避となることが、そしていかに不可避となるかが洞察されねばならない」(薗田宗人訳、以下同じ)

真理と見せかけの世界が排除されたとき、全体としての世界がどのような様相を呈するか、そのことについては、「芸術としての力への意思」でも言及されていた。そこでは、この区別が排除されたあとでは、唯一力への意思こそが、生命あるものの生き方の基準を設定する根拠となると言っていた。ところがこの「認識としての力への意思」においては、単に力への意思と言うにとどまらず、特別に「正義」という言葉を持ち出してくる。その正義とは、力への意思とは別物ではないので、その高次の段階のものと位置付けることができるわけである。

この正義という言葉は、もともと政治的な概念をあらわす言葉である。その点では、やはり政治的な響きを感じさせる力という言葉と通底している(力は権力と同じものである)。だから、力への意思という言葉を正義という言葉で置き換えることにはあまり違和感はない。実際ニーチェは、そのような言葉のつながりをもとにして、力への意思に置き換えて正義という言葉を使ったのかもしれない。だがそれにしても、正義という言葉には歴史の垢が染みついていて、政治的な正義という意味のほかに、法律的・道徳的な意味が付着している。力という概念以上に、哲学用語としては問題を抱えているわけである。

そこでハイデガーは、ギリシャ語の正義(ディケー)という言葉にさかのぼる。そのことによって、歴史の垢がまといつく以前の純然たる形の正義の概念を取り出し、それが形而上学(哲学)の基本概念として、力への意思と同じように人間の思惟を根拠づけるものであるとの主張を展開しようとしたらしいのだが、この講義のなかでは、ディケーについての議論は深められてはいない。

そうではあるがハイデガーは、哲学概念としての、しかもニーチェ特有の概念としての「正義」を、「価値評価に立ってなされる思惟である」と定義している。価値評価というのは、人間にとって有用であるか否かを基準とするという意味である。そのことには、真理とは「真-と-見なすこと」という立場も含まれている。要するに人間が生きていくうえで、それも単に人間として存続するだけでなく、より高い状態へと高揚し、生成するにあたって、自分の生を高揚させるについて有用なもの、それが正義であるというわけである。

したがってニーチェの言う正義は、法律や道徳のような、個々の人間にとっての外在的な基準ではない。それは、人間が自由な意思にもとづいて自己自身に課すところの基準、自由で内在的な基準である。それは自由でかつ内在的なのであるから、基準というのがふさわしいとは言えないかもしれない。基準と言って不都合ならば、命令と言ってもよい。実際ニーチェは、この命令という言葉を、自分自身への命令という意味でも使っている。

この場合自由とは、普通に言われるような「何々からの自由」ではない。ハイデガーは「自由の道」と題されたニーチェの覚書を引用しながら、ニーチェの言う自由とは「何々への自由」であると言っている。「自由であることが、ここでは・・・へと自由であること、そして・・・のために自由であることとして、すなわち義務を負いつつ自らをひとつの<遠近法>のなかへと投げ出すこと、自己-自身を-超え出ることとして把握されている。本来的な自由であることは、この『自由の道』と題された覚書に従えば『正義』である」

このようにとらえられた正義は、力への意思の高次の段階をさす言葉だとしてよい。ハイデガーは言う、「力への意思の根源的統一的本質を無内容に、そして抽象的に思惟しないためには、私たちは力への意思を正義というその最高の形態において思惟しなければならない」

要するに正義とは、力への意思と別物ではなく、人間が自己自身を高揚させるについて不可欠な自己自身への命令なのである。もっともその命令は、自由に根拠づけられたものでなければならぬのだが。





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