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同一物の永劫回帰:ハイデガーのニーチェ講義


ハイデガーのニーチェ講義は九回にわたるが、第一回目と第三回目が力への意志をテーマにし、その二つに挟まれた第二回目の講義が同一物の永劫回帰に宛てられている。この三つの講義の関係は次のように言えよう。第一の講義では、力への意思が存在の究極的な本質をなすものとして提起される。第二の講義では、その存在が同一物の永劫回帰という形で現れるということを提示する。そして第三の講義では、力への意思と同一物の永劫回帰とは、基本的には同じことを、つまり存在の本質について語っているのだと結論付けられる、ということである。

ハイデガーによれば、力への意思と同一物の永劫回帰は、ニーチェ思想の根幹をなすものであるばかりか、ほとんど同じことを主題にしていることになる。それはつまるところ、存在の本質にかかわることなのだ。力への意思は存在の「なにか」としての本質を表し、同一物の永劫回帰は、存在の「いかに」としての本質つまり存在のあり方をあらわす。だが、この二つの思想は当初から相携えて現れてきたわけではない。力への意思のほうは、晩年になって本格的に思惟されるようになったのに対して、同一物の永劫回帰のほうは、すでに「喜ばしき知恵」でその端緒的な考え方が提示され、「ツァラトゥストラ」において更に飛躍した考えが語られ、最晩年の「善悪の彼岸」以降本格的に展開される。ハイデガーとしては、このようにニーチェのなかで別々に思惟されてきたものが、最終的に同一の思想の二つの現れとして接合されるにいたる経緯を、この第二の講義の中で追跡していると言えよう。

力への意思は、哲学的な概念としては非常にわかりづらいところがあるが、同一物の永劫回帰はそれ以上にわかりづらい。哲学がこのような種類の概念を問題にしたことはかつてなかったし、またニーチェの思想としても、ほかの部分としっくりかみ合わないところがある。ニーチェ自身この概念を主題的に論じていないと言うこともあるが、これがどのようなことを言い表しているのか、いまひとつしっくりしないのである。一見したところ哲学的とは言えず、むしろ文学的な匂いがするこの用語を、ニーチェはなぜ自分の思想の根本概念として提起したのか。

この概念の内容については、いままで様々な解釈がなされてきたが、ハイデガーによる解釈がもっともわかりやすい。ハイデガーはこの概念を次のように読み解く。ニーチェは存在者の全体としてのこの我々が生きているところの世界は有限だとした。この場合有限とは空間的に有限というふうに受け取ってよい。ニーチェがこのように考えた背景には、当時の科学の状況も考えられる。もともと物理学には、エネルギー保存の法則とか慣性の法則とか物質の有限性を物語る事象が示されていたが、ニーチェの時代には自然科学が一層発達して世界は有限だと言う考え方が強力になってきていた。ニーチェはそういう動向を踏まえて、存在者の全体は有限だと解釈したのであろう。その有限性とは、先ほども言ったように空間的な意味での有限性である。つまり宇宙は空間的には有限だということである。

ところが時間というものはそうではない。時間とは、ニーチェによれば無限の繰り返しなのである。ニーチェがなぜそう考えたか、その詳しいいきさつはわからない。しかし時間を無限とすると、有限なる空間とはどのような関係になるか。それについては、ニーチェはかなり形式的な考え方をしたと言える。それは簡単にいえば次のようになる。有限であるものが無限に繰り返すとどういうことになるか。世界の多様性は、世界の構成要素の組み合わせの多様性に基づくが、その構成要素が有限であって、それが無限の時間のなかでさまざまな組み合わせを繰り返す。構成要素が有限なのだから、その組み合わせも有限であるにちがいない。その有限なものが無限の時間のなかで経過すれば、そのうち同一の事柄が再現されるに違いない。それを無限の時間のなかにおいて展望すれば、同一物が永劫に回帰することになるだろう。同一物の永劫回帰とはつまり、有限な世界が無限の時間のなかでとる姿なのである。

こう説明されると、わかったようなわからないような複雑な気分になる。たしかに理屈のうえではわかったような気持ちになるが、だからといってそのことがどういう哲学的な意味合いを持つのか。そこがわからない。というのも、今我々が問題にしているのは、自然科学的な宇宙観ではなく、哲学的な議論だからである。同一物の永劫回帰は物理学的自然観としてはありうる議論だと思うが、哲学的には何か意味を持つと言えるのか。

そこには十分な意味がある、とハイデガーは言う。同一物の永劫回帰とは、とりあえずは自然科学的な宇宙観の問題には違いないが、そこで問題にされているのは、存在者の全体としての宇宙であり、世界である。ところがその存在者の全体ということはまた哲学の議題でもありうる。というよりは、ハイデガーによれば、哲学というものは、存在とは何かという問い、それをハイデガーは根本的な問いというのだが、その問いに答えることを目的としているからだ。それゆえ、宇宙のあり方としての同一物の永劫回帰は、哲学の主要命題にもなりうる、というわけなのである。

かくして同一物の永劫回帰を哲学上の概念として位置づけたうえは、次の戦略は、この同一物の永劫回帰の概念を力への意思と関連付けることだ。というのも、力への意思こそはニーチェの思想の中核なのだし、その思想が存在の本質を表しているとすれば、同じく存在にかかわる概念である同一物の永劫回帰との関連が当然問題になるだろうからである。

この両者の関連を追及することが、この講義のクライマックスをなすのであるが、そのクライマックスの議論を、クライマックスにふさわしいようにハイデガーは演出している。彼は、哲学の始原であるギリシャの思想に立ち返り、そこからこの議論を立ち上げるのだ。ハイデガーが自分の手がかりとして持ち出すギリシャの哲学者はパルメニデスとヘラクレイトスである。パルメニデスは、存在者は存在する、と言った。この場合の「存在」とは、永続性と現前、永遠なる現在のことを言う。一方ヘラクレイトスは、存在者は生成する、と言った。存在者は、絶えざる生成、自己展開、有為転変のなかに存在しつつある。この二つの概念、存在と生成とが、存在をめぐる議論のカギとなるものである。この二つは一見相いれないように映る。永続性は不変に通じ絶えざる生成とは相いれないと考えられるからである。だがニーチェはこの二つの概念を密接に結びつけて考えるとハイデガーは言う。ニーチェにとっては、生成しつつ存在するものが重要なのである。単に不変のものとして存在するだけでは、真に存在するとは言えない。また絶えず生成するだけでも存在するとは言えない。生成に存在の性格を烙印することがポイントなのである。そのことをニーチェは力への意思として言い表す、ニーチェにとって存在とは、生成しつつ存在するものとしての力への意思そのものなのである。

一方同一物の永劫回帰とは、生成しつつ存在するものが、姿を表すその仕方、つまり存在の仕方を指して言う。言い換えれば力への意思の表れである生成しつつ存在するものが、究極的にとる姿なのである。それゆえニーチェは言うのだ。「力への意思は、その本質において、またその内容的可能性から言って、同一物の永劫回帰として存在する」と。かようなわけでハイデガーによれば、「ニーチェは、彼の本質的思想、同一物の永劫回帰において、西洋哲学の始原に発した二つの存在の根本的規定~生成としての存在者、および永続性としての存在者~を一つに結合する」(薗田宗人訳)のである。

以上のようなわけで、ニーチェの同一物の永劫回帰の思想は、時間と空間にかかわる独自の考えを前提としている。有限の空間と無限の時間の組み合わせから同一物の永劫回帰が演繹されるというわけである。したがってニーチェの依拠する時空についての前提が揺らぐと、ニーチェの思想も立脚点を失って崩壊するということになるだろうか、という疑問が当然湧くであろう。たとえば、時間も有限である、ということになったらどうなるのか。





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