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存在の歴史としての形而上学:ハイデガーのライプニッツ論


ハイデガーのニーチェ講義第八講は「存在の歴史としての形而上学」と題しているように、ニーチェを正面から論じてはいない。また、それまでの講義録とちがって文章がこなれていない。そのため非常に読みづらい。これは、この文章が覚え書きにとどまっていることのせいであろう。読みづらいばかりか、ハイデガーの言いたいことがよく伝わってこないきらいがある。そこを我慢して読むことで、何が得られるだろうか。

文章は八つの覚え書きからなっている。前半ではプラトン・アリストテレスによって開始されたヨーロッパ形而上学の歴史がざっと振り返られ、後半の三つの覚え書きでは、もっぱらライプニッツの思想が取り上げられる。ヨーロッパ形而上学をめぐる議論は、本質存在と事実存在の対立を中核として、それにイデアとエネルゲイアの比較とか、存在と存在者の分裂とか、ハイデガーが存在論の根本概念として考えている事柄が述べられる。この部分はだから、先行する講義の概要をおさらいしているようなものだ。

問題はライプニッツを論じた部分だ。ハイデガーがライプニッツを重視していたことはよく知られている。だがそのライプニッツを、ニーチェ講義のこの部分で持ち出してきたことにどんな意味があるのか。この覚え書きを読んだだけではよく伝わってこない。この覚え書きでは、ライプニッツの思想のうち、モナド論と根拠律にかかわる議論が取り上げられているのだが、その二つの根本概念が相互にどのような関係にあるのか、またライプニッツのこれらの思想がヨーロッパ形而上学の歴史の上でどのような位置づけにあるとハイデガーが考えているのか、そのあたりが文面からはよく伝わってこない。それゆえ読者は多少の想像力を働かせて、行間を埋めてゆく作業を強いられる。

その作業の結果、もし浮かび上がってくる事柄があるとすれば、それは次のようなことではないか。ライプニッツは、デカルトが始めた議論を先鋭化させて、ヨーロッパの形而上学に大きな穴をあけ、その穴をそっくりニーチェに引き継いだ、そのことでヨーロッパの形而上学の解体の歴史に巨大な足跡を残した、と。

これだけではざっくりしすぎていてわかりづらいかもしれぬ。デカルトがなした仕事は、思惟の主体としての人間を世界解釈の根拠に据え、あらゆる存在の根拠を人間の思惟作用の確実性に関連づけた。だが、デカルトは存在を思惟に関連づけただけで、存在を思惟の産物だとまでは言わなかった。それを言ったのがライプニッツである。ライプニッツのモナドとは、人間の思惟作用を実体化したものである。その思惟作用の実体化したものとしてのモナドから世界はなるとライプニッツは言った。つまり世界は思惟の産物だと言ったわけである。このことはヨーロッパの形而上学とはまったく正反対の主張を意味した。従来のヨーロッパの形而上学では、あらゆる存在の根拠は神なのであり、思惟もまた神によって根拠づけられた。この場合この神をイデアと言い換えてもよい。要するに、人間の外部にあるものによって、人間を含めた存在者を根拠づけるというのが従来のヨーロッパの形而上学の伝統だったわけであるが、ライプニッツはその伝統を、デカルトともに破壊したとハイデガーは見るわけである。そしてその破壊の力がそのままニーチェに受け継がれて、ヨーロッパの形而上学に大きな転換が訪れる、そういうふうな見取り図をハイデガーは描いていたように見える。

そんなわけで、この文章におけるライプニッツのモナドにかかわる議論は、デカルトとニーチェの橋渡しというような観を呈している。もっともハイデガーはこの文章の中で、ライプニッツとニーチェの関わり合いを表向きは論じていない。モナドの本質は表象と意思にある、などという言い方で、この二人の巨人の関わり合いを暗示している程度である。だから読者は行間からそれを読み取らねばならない。

この文章が主題的に論じているものとして、このモナドにかかわる事柄の外にもうひとつ、上述したように根拠律にかかわるものがある。最後の覚え書きはライプニッツの「二十四の命題」をそっくりそのまま引用したものであるが、それは次のような文章で始まる。「ナゼ無デハナク、ナニカガ実在スルノカ、トイウ根拠ガ自然ノナカニアル。コレハ根拠ナシニハナニモノモ生ジナイトイウ大原理ノ帰結デアル。同様ニマタ、ナゼナニカ他ノモノデハナク、ムシロコノモノガ実在スルノカトイウ根拠ガナケレバナラナイ」(薗田宗人訳)

この冒頭の言葉は、ハイデガーがさまざまな著作のなかで繰り返し述べてきた言葉である。この言葉をハイデガーはほとんどの場合に自分の言葉として述べてきたわけであるが、この文章の中ではそれがライプニッツの言葉であるということをわざわざ表明している。そのことによって自分の思想がいかにライプニッツの影響を受けているか、それを認めているわけである。

この言葉はライプニッツの文章の中では根拠律の問題として述べられているが、ハイデガーはそれを存在論のマターとして述べている。存在論という点では、モナドにかかわる議論もまた存在についての議論と言えるが、モナド論が実体を足がかりに存在を論じているのに対して、この言葉は存在をストレートに取り上げている。「ナゼ無デハナク、ナニカガ存在スルノカ」と問いかけることは、存在者が存在することの根拠をストレートに問うているわけである。ハイデガーの存在論は、そのストレートな問いに対して迂遠な答えを出そうとする試みだったと言える。

こうしてみると、この文章は、ハイデガー自身の存在論を、ライプニッツと関連づけて述べたものと言えなくもない。ハイデガーはニーチェのなかにヨーロッパの形而上学を解体するような激しさを読んだわけだが、それは自分自身の存在論とストレートに呼応するところが弱かった。ハイデガーがニーチェを語るときには、自分自身の思想とは異なったユニークな思想として取り扱っているところがある。ところがライプニッツを論じるときには、自分の思想の先駆者を見るような目で見ていると感じさせられる。ナゼ無デハナク、ナニカガ存在スルノカ、という問いや、その存在とはそもそも人間の思惟の作用にとって確実性を以て表象されるものだとする点などは、両者に共通したものである。

こう総括すると、ライプニッツとニーチェとの間に接点を見つけることがむつかしいようにも見えるが、ハイデガー自身は、両者は主体が世界を見る目の遠近法を共有しているというところに、この二人の関連性を認めているようである。ハイデガーは言う、「それぞれのモナドは、それらが根源的に一体化しつつ、それぞれがそれぞれの視点から宇宙の遠近法としての一世界を映し出しつつ起来することによって存在する」。この遠近法という言葉はもともとニーチェが使ったものである。ニーチェはこの言葉で、超人による世界の再解釈に言及したわけだが、ライプニッツはモナドとしての個人の宇宙解釈を言い表したわけである。





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