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国学的思考と実感信仰:丸山真男「日本の思想」


丸山真男は、日本的思考(日本の思想の疑似形態ともいうべきもの)への国学の影響を大いに問題視している。丸山は国学を、儒仏の思想へのアンチテーゼとして出発したと抑えたうえで、それの基本的な特徴を、儒仏がイデオロギー的な体系性なり理論的な性格を持っていたのに対して、非イデオロギー的であり感覚的であることに求めた。

本居宣長の問題意識は、儒仏以前の日本の固有信仰を復元することにあったわけだが、その固有信仰というものを、何ら積極的な内容を伴っているものとは説明できなかった。日本固有の信仰というものは、漢意(からごころ)としての儒教や仏教とは違うものだというのみで、では何がその固有信仰、つまり神道というものの固有の内実なのか、ということについて何も言うことはなかったのである。

それ故、その固有信仰たる「神道」について、そんなもの(イデオロギーとしての神道)はもともとなかったのだと荻生徂徠から指摘されると、宣長はそれをあっさり認めざるを得なかったのであるが、それでもなお開き直り、そもそもイデオロギーとしての神道のみならず、あらゆるイデオロギーというものは虚偽なのだといって、イデオロギーそのものを拒否するに至った。その拒否の仕方は、およそ思考というものの論理的な性格まで否定しさる体のものであり、そこから国学特有の非論理的、感覚的な思考様式が強化されたと丸山は考えたわけである

そうした国学的思考様式の特徴について、丸山は宣長の儒教批判を取り上げながら、次のようにまとめている。(丸山真男「日本の思想」)

① イデオロギー一般の嫌悪
② 推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直接的解釈を絶対化する結果となる
③ 手応えの確かな感覚的日常経験にだけ明晰な世界を認める考え方
④ 論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引き下げる批判様式
⑤ 歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会として反発する思考、等々

こうした思考様式がきわめて非合理主義的な態度に結びつくことは避けられないが、日本という国にとって不幸だったのは、こうした思考様式が、徳川時代における一国学の伝統を超えて、明治以降の日本人の思考様式をも強く縛ったことだと丸山は考える。

国学的思考様式が近代日本人を縛った例として、とりあえず丸山があげるのは、日本の近代文学である。日本の近代文学を縛った拘束与件として丸山は次のいくつかのものをあげている。

① 感覚的なニュアンスを表現する言葉を極めて豊富に持つ反面、論理的な、普遍概念をあらわす表現にはきわめて乏しい国語の性格
② 右と関連して四季自然に自らの感情を託し、あるいは立居振舞を精細に観察し、微妙に揺れ動く「心持」を極度に洗練された文体で形象化する日本文学の伝統
③ リアリズムが勧善懲悪のアンチテーゼとしてだけ生まれ、合理精神(古典主義)や自然科学精神を前提に持たなかったこと、したがってそれは国学的な事実の絶対化と直接感覚への密着の伝統に容易に接触し自我意識の内部で規範感覚が欲望や好悪感情から鋭く分離しないこと、等々

もとよりこれらの束縛はひとり国学のみのもたらしたものではないが、国学が古い日本の伝統を掘り返す形で、それを強めたことは否めない。徳川時代の儒教においても、荻生徂徠のような合理的な精神の持ち主はいたわけであり、したがって日本の思想にもそうした合理主義への展開の可能性はあったわけであるが、国学の影響が強まるのと並行して、そうした合理主義の芽は摘まれ、日本的思考はますます魑魅魍魎の世界にはまり込んでいった、というのが丸山の基本的な認識のようである。

丸山は、以上の束縛のもたらした日本的思考の特徴を実感信仰と名づけた。そしてその実感信仰の同時代におけるチャンピオンとして小林秀雄の名前を仄めかした。そこから大きな反響が生まれたことは、いまでも日本思想史上の大きなトピックのひとつとして記憶されている。

というのも、丸山の著作「日本の思想」が刊行されるや、「理論信仰」と「実感信仰」の対比と言う形で論争がおこったのであるが、それは丸山の小林批判への反撃として始まったといってもよかった。小林を担ぐ日本の同時代人たちは、丸山が小林を批判したことに、まるで自分たちが貶められたかの如き反感を感じたのであろう。

丸山はこのことに大いに恐縮して、自分がこの本の中でもっと強く言いたかったことは別のことだったのに、このことばかりが取り上げられて迷惑したという意味のことを「あとがき」の中で書いているが、しかし見様によっては、この部分こそこの本のもっとも革新を成す部分といえなくもない。

小林を模範として仰ぐ日本人は今でもかなりの勢力がある。そうした勢力が幅をきかせているかぎり、丸山のこの主張は歴史的意味を失わないだろうと思う。


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