知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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現象的世界の四肢的存在構造:廣松渉の認識論


この奇妙な題名は、廣松渉の哲学的著作「世界の共同主観的存在構造」第一章の章題である。この書物の課題は、人間の認識の根本的なあり方を明らかにすることであるが、それを廣松は共同主観的なあり方としてとらえた。従来の哲学の主流の意見においては、人間の認識作用を主観―客観図式でとらえたうえで、主観は意識内在的なもの(したがって各私的かつ自律的)であり、かつすべての個人を通じて同型的であるとされてきた。このような見方に対して廣松は、主観の各私性・自律性を否定し、それが共同主観的な枠組によって歴史的・社会的に制約されていること、その制約は個別の意識にとっては外在的なものとして働くということを主張した。何故そういえるのか、その根拠を明らかにしたのが、この「現象的世界の四肢的存在構造」と題する章なのである。

四肢という言葉は、主として人間の身体について言われる言葉である。二本の腕と二本の脚、これを合せてわれわれは四肢という。その言葉を廣松は、人間の認識作用に関して、(比喩的な意味で)用いた。だが、それは人間の認識が、身体のように、躯体と四肢からなるといっているわけではない。あるいは、感覚的な作用が身体に相当し、知性的な作用が四肢に相当する、と言っているわけでもない。何故なら、人間の認識をいくら比喩的に表現してみても、それが身体とパラレルな像を結ぶとは到底言えないからである。それなのになぜ廣松は、この言葉を認識論の文脈において持ち出してきたのだろうか。

廣松は人間の認識を、とりあえず主体的側面と対象的側面とに区分し、その両者に二重の存在構造が見られると主張した。その二重性を廣松は二肢的と表現し、その「二肢的」が二つ重なりあうから「四肢的」と言っているだけなのである。だからこれは言葉の綾のようなもので、この言葉から本質的な内容があふれ出て来ると期待してはいけない。つまり、この言葉は、意味するものの内実と意味のある連関性を持たないのである。だから我々は、この言葉によって廣松が何を意味したいのか、それを虚心に追いかけるしかない。

まず、対象的側面の二肢性について。意識の対象は、とりあえずは現象的所与として現れる。廣松はこれをフェノメノンといっている。カント的に言い直せば、感覚的所与ということになる。カントの場合には、この感覚的な所与を意識の与件として、これを意識が備えているアプリオリな枠組に当てはめることによって認識が生じる。枠組のもっとも基本的なものは時間・空間という直感の形式である。時間・空間といえば、デカルト的な感覚からいえば、対象に内在している客観的な形式と考えられがちであるが、カントによれば、そうではなくて、人間の認識作用にアプリオリに備わった枠組なのであった。人間の認識作用とは、この(時間・空間という)アプリオリな枠組に、対象としての感覚的な所与があてはめられることによって生じるのである。

ところが、廣松はそうは考えない。現象的所与として現れる対象は、カントがいうような無規定なものではない。それは、意識の対象としてあらわれたその瞬間から、それ自体において(即自的に)、感性的所与以上のあるものとして現れる。「いま聞こえた音は自動車のクラクションとして、外に見えるのは松の木として、直覚的に現れる。私がいま机の上にころがっているものを見る時、それを端的に『鉛筆』として意識する」(「世界の共同主観的存在構造」第一章、以下同じ)

カント的な立場では、鉛筆が初めて感覚として意識された時には、何らの規定性を持っていない、ただの物体である。それが鉛筆として認識されるためには、意識の側からする規定性の働きかけ(判断)が必要である。ところが廣松は、鉛筆は意識に現れた時にすでに、端的に鉛筆として意識される。これをいいかえれば、「与件(この場合には個別の鉛筆としての物体)を"単なるそれ以上の或るもの(この場合には一般的な概念としての鉛筆)として」意識する、という構造が成り立っている。カントの場合には、与件(主語)とそれ以上の或る者(述語)との間に判断のプロセスが介入するところ、廣松は判断をともなわずに、端的に認識するというわけである。

なぜそういうことが成り立つのか。廣松はとりあえず、それを意識の性格から説明しようとする。すなわち、「意識は、必ず或るものを或るものとして意識するという構造を持っている。すなわち、所与をその"なまのもの"als solches に受け取るのではなく、所与を単なる所与以外の或るもの etwas Anderes として、所与以上の或るもの etwas Mehr として意識する」(同上)

ここで、"なまのもの"と言われているのはレアールな所与とも言い換えられる。また、"所与以上の或るもの"といわれているのは、イデアールな etws とも言い換えられる。それゆえ、上の文章は、「イデアールな etwas がレアールな"所与"においていわば肉化 inkarnieren して現れる」(同上)というふうに言い換えられる。レアールな所与は、判断を介さず直接にイデアールな etwasとして現れるというわけである。

このように、現象的所与としてのフェノメノンが、すでにそのうちに、レアールな要素とイデアールな要素をともに含んでいることを指して、廣松は意識の対象的側面における二重性=二肢性と呼ぶわけである。「フェノメノンは"フェノメナルな意識の直接的な与件"以上の或るものとして、即自的な"対象的二要因"のレアール=イデアールな二肢的な構造的統一において、現れる」(同上)

次に、主体的側面の二肢性について。廣松の主体性論の特徴は、主体を他者との関係において捉えることである。その点では、主体を個人の意識内に限定して論じるカントとは大きく異なり、むしろヘーゲルの方法に近い。いうまでもなくヘーゲルは、自己意識を他者との関連において捉えた。そうすることによって、人間が社会的存在であることをあぶりだしたわけだが、その折角の自己意識も絶対精神のなかに止揚されてしまうという点で、精神のとる過渡的な形態であるとされ、あまり突っ込んだ分析はなされなかった。(せいぜい主人と奴隷の関係を論じた程度だ)

主体を他者との関係において捉えるとは、人間を孤立した意識として捉えるのではなく、他者とコミュニケーションする存在として捉えることだ。コミュニケーションとは、情報や知識を伝達しあうことである。そころが、情報や知識の伝達が可能であるためには、伝達する者と伝達されるものとの間に、共通の了解がなければならない。でなければ、伝達する者がAとして理解していることがらを、伝達される者がAとして受け取ることが可能にならない。この機制について廣松は、次のように言っている。

「知識が伝達されるというのは、一方の人物が所与を etwas として捉えるその仕方と、他方の人物がそれを etwas として捉える仕方とが同じになるということに他ならない」(同上)

これをいいかえれば、伝達する私と伝達される彼との間で、共通の認識機制が働いているということになる。ここにおいて、認識機制を共通にする仲間としての「我々」というものが問題となる。私や彼は、孤立した存在として認識作用を行っているのではなく、我々のひとりとして認識しているがゆえに、我々の構成員たる私と彼との間で、コミュニケーションが成立するわけである。

「"現与"の対象的世界は、われわれが『誰かとしての誰』という構造においてある限りでのみはじめてわれわれに対して拓ける世界である。すなわち、視角を変えて云い直せば、対象的世界が『に対して』拓けるのは、自己分裂的自己統一においてある限りでの"主体"~単なる私としての私以上の私~いわば"我々としての私"に対してである」(同上)

この"我々としての私"のうちに、主体性の二重の性格、つまり二肢性があるのだと廣松は考えるわけなのである。こうして、対象的側面と主体的側面との両方において二肢性が確認された。二肢性とは、レアールなあるいは個別のものが、イデアールなあるいは普遍的なものを含みこんでいる事態をさしていう。いいかえれば、レアールなものはイデアールなものが肉化したという存在構造を呈している、ということになる。

「"主体"たるかぎりでの人々は、一般的に、即自的には、そして für uns には、このイデアールな"主体"の ein Exemplar として存立する。イデアールな jemand は、この"肉化"においてのみ、現実的な存立性をもつ」(同上)

こうして剔抉されてきた四肢的存在構造が、共同主観性とどのような係わりを持つのか、いまや明らかだと思う。レアールな ein Exemplar として存立するイデアールなもの、そこに廣松は共同主観的存在構造を見るわけである。イデアールなものとは、ある人間共同体が歴史的・社会的に形成してきた世界認識の枠組であり、したがって、個別の人間にとっては外在的な制約として働く、ということになる。




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