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やまと考:本居宣長「石上私淑言」


本居宣長は「石上私淑言」の中で、日本の国名としての「やまと」について、かなり詳しく論じている。宣長によれば、「やまと」という名は、もともとは一地方の国名(大和の国)として言われてきたもので、日本全体を指す言葉(惣名)としては、「葦原の中つ国」とか「大八洲国」とか言った。「天上よりこの国をさしては、『葦原の中つ国』といひ、この土にていふ時は、『大八洲国』といへるなり」と言うのである。

「やまと」がいつ頃から日本の惣名になったか、という点については、宣長は古事記仁徳天皇の条に「そらみつやまとの国」とあるのを引用して、仁徳天皇以前に日本全体をさして「やまと」というようになったとしている。その理由は、古来歴代天皇が都を「やまとの国」に置いたところから、「やまと」の国名を日本全体の惣名として転用したのではないかと推測している。

「やまと」の字義について宣長は、「山処」の意だと仮定している。「青山のめぐれる中にある国」の意ではないかと言うのである。なるほど今の奈良県に相当する「やまとの国」の領域は山に囲まれているので、そう言えなくもない。筆者個人としては、「やまと」は「山門」つまり「山の入口」と考えてきた。高天原と葦原の中つ国とを結ぶ神聖な山である三輪山に上る入口、それが「やまと」の名称のもとになったと考えるのである。これには、やまとの北側の「やましろ」の国を「山の後ろ」とすることで、「やまと」、「やましろ」を一体的に説明できる利点もある。

「やまと」に「倭」の字を宛てるようになったのは、唐が日本をさして「倭」と呼んだので、その漢字の和訓として、日本古来の詞「やまと」をあてただけだ、と宣長は言う。ところが「倭」という漢字には、野蛮だという意味合いが含まれ、これは問題だということになって、同音の「和」が用いられるようになった。従って日本をさして「和(あるいは大和)」と表記するのは日本人だけで、漢字の本国たる中国においては、そうはならなかった。この辺の解釈は、筆者も採用しているところだ。なお、「倭」が「和」に改められたのは、天平勝宝四年から天平宝字二年までの間、即ち幸謙天皇の御代のことだろうという。

「日本」という国号が用いられるのはいつ頃のことか。これについて宣長は、幸徳天皇即位大化元年七月丁卯朔の詔に「日本天皇」云々とあるのを引用して、幸徳天皇の御代だったとしている。「すべてこの御代には新たに定められたることども多く、年号なども始まりしかば、いよいよよしありて覚ゆるなり」と言うのである。

「日本」という国号は、唐向けの対外文書の中で主に使用され、国内向けには「やまと(大和)」が用いられた。唐の人々も、日本人のこだわりを尊重し、たとえばあの李白が日本からの留学生である阿倍仲麻呂の本国を称して日本と書いている。「日本」の字義は「日の本つ国」ということであって、唐からみれば日本は東にあることから、太陽が昇る方向を強調したものだと解釈される。聖徳大使が隋の煬帝に贈った外交文書に、日本が日の昇るところであることがことさらに強調されていたことはよく知られているとおりである。

「やまと」の枕詞として「しきしまの」がある。万葉集人麻呂歌集の歌に「志紀島倭国(しきしまのやまとのくに)」とあるところから、かなり古い言葉だとわかる。「しきしま」の「しき」は石で作られた城という意味である。それ故「しきしまのやまとのくに」とは、「石で作られた城のように堅固な島、それがやまとの国だ」という意味である、と宣長は言う。

「しきしまのやまと」という言葉は、宣長の気に入った言葉だったようで、彼はこの言葉を盛り込んだ有名な歌を作っている。
  敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
この歌は、国学の愛国精神を象徴するものとして、軍国主義の時代には大いにもてはやされた。フィリピン戦で最初に結成された特攻部隊に、この歌から文字を拝借して、「敷島隊」、「大和隊」、「朝日隊」、「山桜隊」と命名されたことは、歴史の一こまとして記憶されている。

「歌」を「和歌」あるいは「やまとうた」と呼ぶのは、中国の詩と日本古来の歌とを対比させることから生じたもので、歌はもともと「うた」とのみ呼ばれていたし、またそう呼ぶべきものだった、と宣長はこだわりを見せる。「うた」を「やまとうた」と言うようになって、「しきしまの」という枕詞が「やまとうた」という言葉にもつくようになって、「しきしまのやまとうた」などと歌われるようにもなった。そこから転じて「しきしまのみち」などと言われるようにもなったのだが、これはちょっと行き過ぎである、せめて「しきしまのやまとうたのみち」くらいにとどめておくべきだ、と宣長はこぼすのだ。

この「みち」という言葉は神代からの古い言葉であるが、これは本来人間の通る道、つまり道路をさした言葉であって、今日われわれが使っているような、あるべき姿とかものごとの理とかは意味していなかった、と宣長は注釈する。この道という言葉を、神に結び付けて「神道(かみのみち)」と言うようになったのは、漢字の持つ「道理」の意味合いを生かした言い方であって、漢字が伝来した以降の新しい出来事である。「神道はわが御国の大道なれども、それを『道』と名づくることは上つ代にはなかりしなり」と言うのである。こういうわけであるから、「歌道」といい「うたのみち」というも、なかなかいかがわしいことだと宣長は考えているようである。

以上の議論から見えてくることは、日本人は、すっかり唐の文明に毒されてしまい、日本人古来のあるべき姿から逸脱している、だから日本人としての本来の姿を取り戻すべきだ、とする宣長の素朴な、愛国的な心情なのである。




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