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本居宣長の平安時代礼賛


宣長にとっては、「古へ」こそが日本人の理想の時代であって、そこから時代が下るに従って日本人は理想から逸脱してきたと考えているようである。その理由は、時代が下るにつれ唐(から)の影響が日本人の間に浸透してきて、儒仏の考え方に捉われるようになり、日本人の本然の姿である「もののあはれ」を知る心が乱れてきた、ということらしい。だが宣長の面白いところは、理想としての「古へ」を、少なくとも歌や物語の領域においては、万葉や古事記の時代ではなく、平安時代の中期以降に設定していることである。そこからして歌の理想は「古今集」であり、せいぜい「後撰集」や「拾遺集」がそれに続く。一方、物語としては「源氏物語」が理想的なものとされる。どちらも、日本人の本然の姿である「もののあはれ」を知る心が貫かれているからだ、とする。

古今集に体現された歌道と源氏物語に代表される物語が、ともに「もののあはれ」にもとづいているということを、宣長は次のようにいう。「歌は物の哀れを知るより出で来、また物の哀れは歌を見るより知ることあり。この物語は物の哀れを知るより書き出でて、また物の哀れはこの物語を見て知ること多かるべし。されば歌と物語とその趣きひとつなり」。つまり、歌も物語も同じく物の哀れを追求しているから、畢竟めざすところは同じなのだというわけである。それゆえ、物語を読むには歌のこころに通じていることが望ましく、歌を味わうには物語の世界に通じていることが有益だということになる。

この、「もののあはれ」を知る心は、おそらく神代の昔から、ということは古事記や万葉集の書かれた時代においても、日本人の姿として定着していたと考えられるが、それが全面的に開花したのは平安時代の中期以降だと宣長は考えているようである。宣長は、あからさまにはそうは言っていないが、歌を作るには古今集を手本とし、古今集を味わうには源氏物語の世界に通暁していることが肝要であるといような言い方をしているから、平安時代の中期から後期にかけての時代が、「もののあはれ」を知るという点では、日本人の黄金時代だったと認めていると言って過言ではない。

ところで、古今集にせよ、源氏物語にせよ、それらを担っているのは平安時代中期以降の貴族社会である。宣長は古の中以上の人の風儀人情というような言い方をしているが、要するに平安時代の後半に花開いた、宮廷を中心とした貴族社会の「風儀人情」が、日本人の理想的なあり方として設定される。日本人は、歌はいうにおよばず、いかなる分野においても、この時代の風儀人情を理想のあり方として追求せねばならない。

とりわけ歌においては、古ぶりを学ばねばならない。歌というものは風格が大事であるから、当世風の野暮な風情を持ち込んではならない。「もしおのが思ふままに下れる世の下賎の情にてよまば、よき歌は出で来がたかるべし」。宣長にとっては、古こそが理想の時代であって、それから時代が下るに従って人々の風儀人情は衰えてくる、その衰えた風儀人情を歌に読み込むのは下賎なことだというわけである。

古の風儀人情を理解する上で、源氏物語にまさるものはない。それゆえわれわれは源氏物語を熟読し、そこに描かれた風儀人情から人間の理想のあり方を知ると共に、それを生活の中で実践するように努めねばならない。古ぶりの歌を歌うのは勿論、ものの考え方も古ぶりにもとづいたものであることが必要だ。

こんなわけで宣長にとっては、源氏物語は、単に古の風儀人情を知る為の手がかりたるにとどまらず、生き方の実践の手引書ともなる。その生き方とは、もののあはれを知るこころで世の中に接することである。もののあはれを知り、それにもとづいて生きていくこと、これこそが日本人の正しい生き方である。その生き方の指針となるのが源氏物語なのであって、この書はいわば日本人にとっての聖典のようなものなのである。「大方世の風儀人情をつまびらかに書きあらはして、人をして物の哀れを知ること深からしむること、和漢古今に並びなし。孔子もしこれを見給はば、三百編の詩をさしおきて、必ずこの物語を六経に連ね給ふべし。孔子の心を知れらん儒者は、必ず丸が言を過称とはえいはじ」

こうまで行くと、「もののあはれ」原理主義のような匂いが立ち上ってくる。もののあはれを知る心というのは、人間自然の感情を大事にするところに妙があるが、人間というものは、感情だけで生きてゆけるものではない。そうだからこそ、儒仏の出る幕もあるというわけである。だから宣長も、儒仏を排斥しようとまではいわない。儒仏を排斥して、もののあはれ一辺倒になってしまったら、たしかにさっぱりするかもしれないが、そうなると日本人は随分と不道徳になってしまう恐れがある。それはそれでよいではないか、と居直るのも戦術かもしれないが、宣長はそこまではいかない。儒仏にもそれなりの地位を認めてやりながら、もののあはれを知る心を大事にする。つまり共存を図ろうという主義である。

「儒は儒の立つるところの本意あり。仏は仏の立つるところの本意あり。物語は物語の立つるところの本意あり。それをかれとこれとをしひて引き合せてとかくいふは、付会の説といふものなり・・・教戒のことは外にいくらもその方の書籍が多くあれば、物遠きこの物語を借るには及ばぬことなり」。要するに、儒・仏・物語それぞれに、それぞれの本意を得せしむるべし、という態度を宣長はとっているわけである。それにしても宣長の平安時代礼賛は、いかにも宣長らしいユニークな姿勢の現われと言えよう。強硬な原理主義のようでいて、妥協を排しないという日和見主義をもあわせ有している。




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