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本居宣長「宇比山踏」


「宇比山踏」は、本居宣長の「学問の進め」というか、学問の手ほどきというようなものである。宣長は学問を日本の古い時代を研究する学問、すなわち古学だとしているので、この書物は「古学入門」と言ってもよい。宣長は古学の意義について色々な書物のなかで折に触れて強調していたが、この書物の中でそれを体系的に述べたのである。

本文の中で宣長自身が述べているように、この書物を書いたのは寛政十年の六月、宣長が畢生の大著「古事記伝」を擱筆した直後、馬歯六十九の年のことであった。大業をなしおえて一息つく余裕ができたところで、門人たち始め初学者のために学問の心得を書き残しておきたいという気持に駆られ、一気に書き下ろしたものである。日頃考えをあたためていたところであるから、筆は一気呵成に進んだものと思われる。

宣長が言うには、古学とは古代の道の学問である。その道というのは、「天照大神の道にて、天皇の天下を治める道、四海あまねく通ずるまことの道であるが、ただ日本にのみ伝わっている道である」(「中公版日本の名著」所収、石川淳による現代語訳)。この日本にのみ伝わる尊い道を明らかにすることによって、日本人としてのみならず、人間としての生きるしるべを求めるのが古学、すなわち学問の本意である、と宣長は考えるのである。

宣長によれば、「この道こそ『古事記』『日本書紀』の二書に記されたところの、神代上代のいろいろな事跡においてつぶさにそなわっている」(同上)。それ故道を求めんとするものは、「古事記」と「日本書紀」をつぶさに読まねばならない。また「万葉集」も道の研究のうえでは貴重な拠り所となる。何故なら歌というものは、人間の素直な感情をあらわしたものであって、それを読むことで、古代の日本人の素直な気持に触れることができ、それを通じて歌に盛り込まれている古代の道に触れることもできるからである。

歌集という点では、「古今集」をはじめとした三代集も有益である。これらは万葉集からあまり離れておらず、したがって古代の人々の感情が万葉の歌同様に素直にもりこまれている歌を多く収めているからだ。それに比べれば「新古今集」など後世の歌集は、素直さよりも技巧が表に立っているので、道の研究という面では価値が劣るが、歌の芸術性という点では一歩進んでいる。

こんなふうに言って宣長は、道の研究のうえでは万葉集に高い価値を与えながら、芸術性という点では「新古今集」を高く評価することで、この両者に対する自分自身の態度にバランスをとっているわけである。

だがどちらにしても、宣長が学問の領域を日本の古代の道を究めることに限定していることには変りはない。宣長にとっては、およそ人間が研究するのに値するようなものは、日本の古代の道を明らかにすること以外にはないのである。しかもその古代の道とは、単に我々日本人のそもそもの道の始まりであったばかりか、世界に冠たるすぐれた道でもある。この道に比べれば、仏教や儒教はまがいものに過ぎない。

このように宣長は、日本の道は世界に冠たる優れた道なのであるから、日本人たるものはその道を研究すればよいのであって、仏教や儒教はまともな研究には値しないと考えているようである。宣長が仏教と儒教に敵対意識を見せるのは、彼にとっての外国の学問がこの二つに限定されていたからで、他にも学問の形があることは、たとえば蘭学を窓口とした自然科学とかいうものは、宣長の眼中にはなかった。

こうした宣長の姿勢は、それが極端になると、偏狭な排外主義に陥る傾向を帯びるようになるだろう。実際宣長にはその傾向があった。宣長の姿勢を受け継いだ後継者に至っては、その傾向が極端化し、やがて尊王攘夷の思想を生み出していったわけである。




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