知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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日の神論争:呵刈葭(二)


「呵刈葭」後編では、「日の神論争」として知られる日本の思想史上有名な論争が展開される。この論争は、藤貞幹が「衝口発」という著作で宣長の国粋主義を笑ったことに対して、宣長が「鉗狂人」を著して反論したことを踏まえ、秋成がさらに宣長を再批判した、それについて宣長が再反論を行った、というものである。「鉗狂人」は「狂人」を「たわめる(鉗)」という意味で、その狂人とはとりあえず藤貞幹をさしている。

貞幹の宣長批判の趣旨はごく単純なものだ。宣長は記紀の記述を、現実に起きたことの歴史的な記述のように受け取っているが、記紀の記述には現実にありえそうもないことが多い、たとえば天皇の在位期間が異常に長いことなどである。だから字面通りに受け取るべきではない、というものだ。これに対して宣長は、この狂人(貞幹)は古代のことに無知なのでそんなことを言うのであって、それは漢意のなまさかしらのなせるわざなのだと断定し、そんなことを言うのは「狂人」である証拠だと毒づいたのである。

この宣長の言い分に対して秋成は、貞幹はたしかにおっしゃるとおりの狂人かもしれぬが、狂人は狂人なりの言い分があるかもしれない。そこで自分がその狂人に代わって一・二の点を論じてみたいと言って、宣長の国粋主義的な歴史解釈に批判を加え、それに対して宣長が逐次反論した、というのがこの論争の形である。

論争のテーマは多岐にわたるが、中心となるのは記紀の中の天地創造にかかわる部分だ。記紀は、日の神(天照大神)をはじめわが国の祖神が天地を創造し、世界の秩序を定めたとするが、それはわが国において起った歴史的な事実であるに止まらず、世界全体にとってもそうなのだ、というのが宣長の立場だ。だから記紀が語るところのものは、世界全体にとっての歴史記述と考えてよい。日の神を初めわが国の祖神は、わが国のみならず世界すべての国にとっての祖神でもあるのだ、というわけである。

これに対して秋成は、世界中の国々にはそれぞれ独自の神話や歴史があるのであって、たとえばシナやインドにも、祖神のようなものがある。だから日本の神を彼等に向かって押し付けることはできない。日本の神は、日本を作ったことで十分なので、なにもインドやシナまで作ったことにしないでもよいのだ、というごく常識的なことを言う。

「そんなわけですから、いまもし外国人をつかまえて、この小島こそ万国に先立って開闢し、大世界に照臨される日と月とがまずここに現れた本の国である、だから世界中の国々はことごとくわが国の恩恵をこうむっている、だから貢物をもって臣下としてやって来いと教えたところで、一国としてその言葉に服するものはありますまい」と秋成は言って、「たわむれに申すのですが、もし宣長大人をシナかインドか西洋かのどこかに生まれさせ、三つの国の事蹟を兼ね学ばせたら、いったいどんな見解をお持ちになることでしょうか。ひとつうけたまわりたく思います」(中公版日本の名著所収、野口武彦による現代語訳)とからかうのである。

からかわれた宣長が気分を害するのは無理もない。その口吻はますます先鋭化する。日も月も、日本と外国とで違うものではない、同じ日や月が日本と外国のすべてを照らしているのだ。その日と月とは日本で生まれたと記紀は言っている。その日本で生まれた日や月のおかげだけでも、日本が世界にとって君主の地位にあるのは明らかなことだ。

宣長がこうまで言い張るのをみて、秋成はよほどあきれたと見える。「ともかく大人は、何でもかでも皇国を万国の上に置こうとするから、大人が誹謗してやまないあの智術をもっておのれ尊大にふるまう漢土の道と同じことになってしまうのです」と言って、宣長の狭量ぶりを批判するのであるが、宣長には一向ひるむ様子がない。「わたしは皇国が万国の上にあることを世人が知らないことを憤っているのに、上田氏は皇国が万国の上にあることを憂慮している。そしてその立場からわたしを論破しようとするわけです。これではまったく話になりません」(同上)と言って開き直るのである。

この二人の論争を読んでいると、それを記述しているのが宣長であるということを忘れさせるほどに、秋成の批判には無理からぬところがあり、宣長の反論には感情的で無理なところがある、というふうに伝わってくる。だが、後世への影響という点では、秋成の主張より宣長の主張のほうが遥かに重大な意義を持っていた。宣長の主張は、これを概説すれば偏頗な排外主義と神がかった国粋主義ということになるが、この二つの理説はその後の日本の政治思想に巨大な影を投げかけ続けたのである。

まず明治維新を推進した思想に宣長の思想が大いにかかわりをもった。宣長の排外思想は攘夷という形をとり、国粋主義は尊王という衣をまとって、この二つをあわせた尊皇攘夷の運動が明治維新を推進する思想的な原動力になったわけである。

明治維新は、これを近代化に向けての革命と見る見方と、単なる権力の移行をめざしたクーデターのようなものと見る見方が併在している。フランス革命に代表される西洋の革命は、人間の進歩というものをスローガンにしていた。ところが明治維新がスローガンにしていたのは、未来に向かっての進歩ではなく上古への復古であった。その点では、西洋的な意味合いでの革命だとは到底いえない。むしろ復古反動をめざしたクーデターだったと言うべきである。復古反動を目指したについては、それを担った政治勢力があったわけで、その政治勢力(薩長を中心にした西南諸藩の藩閥勢力)が、権力を奪取するために利用したのが、とりあえずは尊王攘夷運動であったわけであり、その思想的な基盤として宣長の排外的国粋主義が大いに働いたというふうに言えるのではないか。

そうした宣長の思想は、いまでも日本の右翼運動を支える思想的なバックボーンとなっている。日本には健全な形の保守主義がなかなか根付かないと言われるが、それは日本の保守が、保守を超えて復古反動という形をとりやすいという傾向が強いためである。その復古反動への傾向を、非合理的で反知性的傾向ともども、宣長の思想が後押ししている、そんなふうに見えるところがある。そんなわけであるからいまでも、神がかった言葉で国粋的な主張を垂れ流す連中が絶えないというわけであろう。

ともあれ、この論争を通して秋成は、宣長こそ狂人だという思いを強くしたようである。晩年の随筆集「胆大小心録」の中で宣長を「古事記伝兵衛」と罵ったことは有名だが、この言葉には、宣長への軽蔑が露骨にあらわれている。




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