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大杉栄の日本脱出記


大杉栄が日本を「脱出」してフランスに旅行したのは、甘粕に殺される直前のことだ。1922年12月に日本を船で出航した大杉は、翌年の7月に帰国したが、それからほどへず関東大震災に見舞われ、その混乱に乗じて憲兵隊に連行され、有無をいわさず殺されてしまうのである。そんなわけで、大杉のフランス行きとそれを記録した「日本脱出記」は、冥途への新たな旅の置き土産のようなものと言える。

大杉がフランスへ行った目的は、国際アナキスト大会に、日本のアナキストを代表して参加するためだった。この大会はベルリンで開かれる予定だったが、ベルリンへ直接行かずにフランスを経由したのは、フランスが自由に寛容な国で、ここを足掛かりに行動する方がなにかと便利だと踏んだかららしい。

最も当時のフランスは、大杉が思っていたほど寛容ではなかった。その理由を大杉は、第一次大戦後のフランスには、社会不安が醸成されており、それに直面した官憲が寛容でいられなくなったことに求めている。そのあたりの事情を大杉は次のように書いている。「ここにおいて、初めて僕は、戦後のフランスの反動主義がどんなものかということが本当にわかった。そしてこのフランスにいれば大丈夫どころではなく、かえって危険がすぐ目の前にちらついているように感じた」

大杉はフランスを経由してドイツに行こうとするが、官憲の煩雑な手続きにはばまれてなかなか行けない。官憲が旅行許可証を発行してくれないのだ。そこで大杉は、無許可で、つまり非合法にドイツに渡ろうかと思いつめたりもするが、肝心のアナキスト大会の開催の見通しがつかない。そこでぐずぐずしているうちに、パリ郊外のサンドニで開かれたメーデーの大会に顔を出し、その席上、演説をぶったところが、官憲によって逮捕拘束されてしまった。そのあげくに、悪名高いラ・サンテ監獄にぶち込まれてしまうのだ。

こんなわけで大杉の日本脱出記は、フランス監獄への入獄記にもなっている。日本の監獄の常連であった大杉は、フランスの監獄にも親しく接し、東西監獄比較論のようなものを書き残すハメになったわけだ。日本の監獄を出でて、フランスの監獄に入る、その心地や如何というわけである。

日本の監獄については記すことのあまりなかった大杉だが、フランスの監獄については、よほど感銘を受けたのだろう、ことこまかに印象を記している。最も印象深く語っているのは、フランスの監獄が囚人に対して寛容なことだ。日本の監獄のように、一挙手一投足まで干渉されることはないし、食事は、金さえあれば自分の好きなものを好きなだけ食える。実際大杉も金が続く限り食い物には贅沢をした。

取り調べも、高圧的なところはなかった。囚人は弁護士の立ち合いのない取り調べには応じる義務がないし、その弁護士との面会には監視がつかなかった。お互い何を話そうと、何を手渡ししようと勝手なのだ。これにはさすがの大杉も驚いたらしいことが伝わってくる。

大杉は結局追放処分に付せられる。そのやり方がまた面白い。尾行を一人つれて即刻フランスから出て行け、というのだ。そんなことを言われても、受け入れてくれる国がなければ、出てゆきようがない、そう訴えると、そんなことは当方の知ったことではない、自分で塩梅して即刻出て行け、というばかりなのである。

そこで大杉は、官憲との間で次のようなやり取りをする。
「『そうなると僕は、スペインの牢にはいるか、フランスの牢にはいるか、それともスペインとフランスとの国境にまたがっていて、スペインの巡査が来たらそのほうの足を引っ込まし、フランスの巡査が来たらその方の足を引っ込まして、幾日でもそうしたまま立ち続けるようになるんだね』
と笑ってやった。が、主事は、
『まあそんあものさね』ときまじめにすましていた。」

結局大杉は、日本大使館の手をわずらわせたりして、日本行きの客船に乗りこむことになった。それについて大杉は、身辺の整理をしたうえで、船室の確認をすませ、最期にもういちど世話になった人々に挨拶しようとしたところが、船から出ることが許されなかった。船の中は外国扱いで、そこに入ったからには出国したのも同然だ、だから再びフランスの地を踏むためには、それなりの手続きが必要となる。無理に上陸しよぅとしたら、拘引の上監獄送りをすることになる。そう脅かされて、おとなしく従うほかはなかった。

この日本脱出記を読むと、当時アナキストが世界中で厄介者扱いされていて、その行動を監視するために、各国の官憲が協力しあっていたということが伝わってくる。

船は箱根丸という客船で、6月3日の朝早く碇をあげ、一月後の7月初旬に日本についた。その後、この旅行の体験を「日本脱出記」として著し、同年の8月10日に脱稿した。それから一か月あまり後の9月下旬に、大杉は内縁の妻伊藤野枝及び甥橘宗一とともに麹町憲兵隊に連行され、甘粕らによって絞め殺されたわけである。

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