知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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九鬼周造「いきの構造」


日本にはことば遊びの文化的伝統がある。駄洒落や地口など比較的単純なものから、俳文のような高度に知的な文章にいたるまで、ことば遊びの例は枚挙にいとまがない。九鬼周造の「いきの構造」という文章は、そうしたことば遊びを哲学の現場に適用したものだ。彼の場合には、ドイツに留学して西洋哲学を勉強したこともあって、そのことば遊びには洋の東西にわたることば遊びのエッセンスを凝縮したところがあり、それだけでも、日本のことば遊びの伝統に新たな要素を付け加えたという光栄を認めることができるかもしれぬ。

「いきの構造」は、「いき」ということばの持つ意味内容について考究しようというものだ。それを彼は、日本のことば遊びの伝統に加え、ハイデガーの哲学から借りた方法を用いて、学問的に行おうとする。ことばの意味の究明を単なることば遊びの対象にしてしまっては、学問とはいえない。学問というからには、ことがらを理路整然と論じねばならない。その理路整然たる論理の方法を彼は、ドイツで直に師事したハイデガーの方法論から借りてきたわけである。

ハイデガーが、ことば遊びの名人だったことは哲学史上の常識だ。彼の場合には、その遊びを語源の探求に絡ませて行う。ことばの本来の意味は、その語源を明らかにするところから解明される。語源がわかれば、そのことばの意味は九分九厘わかったと言ってよい。ハイデガーはこうした方法意識を以て、自分の哲学体系を構築した。だから彼の哲学体系は、語源の森からなるといっても過言ではない。

一方ハイデガーには、語源重視のほかに、彼独特の存在論的な前提が大きな働きをしている。哲学は抽象的な概念をめぐる思弁ではなく、存在についての具体的な了解から出発すべきだ、というのが彼の信念である。九鬼は、こうしたハイデガーの方法意識を尊重した。だから彼のことば遊びは、語源探求という色彩よりも、存在論的な了解という面を強くもっている。

だいたい、「いき」という特殊日本的事象というべきものを取り上げること自体、存在論的な態度といえる。我々日本人にとってなじみの深いこの事象は、抽象的な概念として抽出されたものではなく、具体的な文化事象として、我々の前に事実的な形をとって存在している。だから我々のなすべきことは、それについて思弁することではなく、その存在性格を味わうことなのだ。「いきの構造」と題するこの小論は、そうした文化的な味わいを態度として示したものだと言えよう。このへんの事情を九鬼は次のように書いている。

「意味体験としての『いき』の理解は、具体的な、事実的な、特殊な『存在会得』でなければならない。我々は『いき』の essentia を問う前に、まず『いき』の existentia を問うべきである・・・我々はまず意識現象の名の下に成立する存在様態としての『いき』を会得し、ついで客観的表現を取った存在様態としての『いき』の理解に進まなければならぬ」

こうした問題意識のもとに九鬼は、「いき」と言う事象の内包的な意味と、それが関連する事象との間に有する外延的な差異について分析し、総合的な見地から「いき」の存在様態を浮かび上がらせようと試みるのである。そして「いき」の内包的な意味は、「垢抜けして(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)ということができないだろうか」と言い、その外延的な(類似事象との)差異については、上品―下品、派手―地味、意気―野暮、甘味―渋味という一連の概念セットとの関連において、その微妙な意味合いを明らかにしようとしている。その際に意識的に用いられる方法が、ことばのもつ隠喩的働きを手がかりにしたことば遊びというわけである。

そうしたことば遊びの一例を挙げれば、「『派手』とは葉が外へ出るのである。『葉出』の義である。地味とは根が地を味わうのである。『地の味』の義である・・・『いき』との関係をいえば、『いき』と同じに他に対して積極的に媚態を示し得る可能性をもっている」が、「派手の特色たるきらびやかな衒いは『いき』の『諦』と相容れない」と言った具合である。まるでことばの空中戦を見るかのような観がある。

この小論のなかでもっとも興味深い部分は、「いき」の芸術的表現をめぐる議論である。芸術は、表象の対象によって客観的芸術と主観的芸術とに分けられる。前者は模倣芸術ともいわれ、絵画、彫刻、詩が属する。後者は自由芸術ともいわれ、模様、建築、音楽が属する。これらのうち「いき」と関連が深いのは主観的芸術であり、そのなかでも模様である、と九鬼は言う。しかして模様の中でも縞模様、それも縦縞がもっとも「いき」と言える。その理由は、縞の平行がもたらす感覚が「いき」の二元性につながるからである。ここで九鬼が二元性ということばで表しているのは、男女の二元性のことだ。その二元性がなぜ平行線の二本の線と結びつくのか、九鬼は説明しない。そんなことは(「いき」の反対としての)野暮だといわんばかりである。

それにしても、模様がもっとも「いき」な芸術だと言う九鬼の見方は面白い。模様は、西洋ではそれだけでは芸術とはみなされないが、九鬼は模様自体に「いき」な芸術性を見た。第一、「いき」という事象が西洋には存在せず、それどころか日本以外には見られない独特のものなのであるから、それが芸術と結びつくとき、西洋的な感覚とはまったく異なった世界がそこに成り立つのも不思議ではない。模様は日本では立派な芸術なのだ。




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