知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




和辻哲郎の存在論


和辻哲郎が存在論を持ち出してくるのは、人間存在を基礎付けるための方便としてである。その点では、人間存在としての現存在を存在の典型として、そこからすべての存在を基礎付けようとするハイデガーと似ているところがある。存在概念を腑分けするにあたって、ことば遊びを駆使するところもハイデガーと似ている。もっとも似ているのは外面だけで、論理展開の内実はかなり異なっている。そこには和辻の和辻らしさがうかがえるのである。

和辻は「人間の学としての倫理学」において、自分なりの存在論を展開した。和辻は、日本語の存在という言葉とドイツ語でそれに相当する Sein という言葉を比較することから始める。和辻は言う、「存在という言葉の意味と Sein という言葉の意味とは相覆うものではない。Sein は主辞と賓辞とを結ぶ繋辞(Copula)であり、従ってロゴスにおいて中心的位置を占める。Sein が論理学の中心問題となったのはそのゆえである。しかるに存在という言葉は繋辞には決してならない」と。つまり、ドイツ語のSein がもっぱら繋辞として用いられるのに対して、日本語の存在という言葉は存在判断をあらわす言葉として用いられるというのである。

ドイツ語の Sein という言葉には繋辞としての意味しかないとする和辻の主張には首をかしげるところがあるが、それはおくとして、和辻は Sein の訳語としては「あり」の方が相応しかったという。「あり」は、繋辞的用法では「である」となり、存在の事実あるいは存在判断をあらわす意味では「がある」となる。この言葉だと、繋辞としての Sein と存在判断としての「存在」と両方の意味をもたせることができる。

「である」と「がある」の差異は、中世のスコラ哲学に遡る存在についての根本的なテーゼであり、ハイデガーによって新たな光のもとに取り上げられた本質存在と事実存在との対立に対応するものだろう。ハイデガーはこの対立を取り上げて、対立しあう両者を存在の二つのあり方としてとらえたわけだが、従って(存在という)一つの言葉に二重の意味を持たせたわけだが、和辻の場合にも、外見上は一応別の言葉だした上で、それらが「あり」を共有する点で同じ根っこをもつ言葉だと整理するわけである。

ところで「がある」を表す言葉としては、別に「有」という言葉がある、と和辻は論点を変える。彼一流の言葉遊びだ。「有」という漢字には、「がある」という意味のほかに、「もつ」という意味もある。「もつ」主体は無論人間である。「金がある」とは「人間が金をもつ」ということなのである。では「人間がある」とは何を意味するか。「金がある」との類比で言えば、「人間が人間をもつ」ということになる。人間自身は、人間以外の何者にももたれるわけには行かないからだ。キリスト教の伝統のなかでは、神が人間をもつ、ということはありえるが、キリスト教と無縁の和辻にはそういう発想は出てこない。

以上から、「もつ」という行為をなしうるのは人間だけだという結論が導き出され、さらには、一切の「がある」つまり有の根底には、人間がもつということがあると結論される。すべての「がある」としての存在は、人間の「もつ」という行為に基礎付けられているのである。したがって、人間が存在しないところでは何者も存在しない。人間の存在がすべての存在の根拠なのである。

ここで和辻はもう一度存在という言葉に立ち返る。存在という言葉は、存という漢字と在という漢字からなっている。存という漢字は、「存じております」という具合に、本来は、あることを心に把持することだと和辻は言う。従って存とは、単になにか「がある」というだけではなく、人間がなにかを自覚的に(心で)把持することを意味する。心で把持されていないものは、存在しないのである。ところで、心で把持するという行為は、時間性を内在させている。把持されるものは失われることもあるわけだが、それは、その転移の過程には時間が介入するからである。

一方、在という言葉は、「にあり」を意味する。つまりなにかが、どこか「にある」ということだ。ということは、この言葉には空間の概念が含まれているということである。どこか「にある」ということは、特定の空間=場所を想起させるからだ。この場所はまた、単に空間的な場所にとどまらず、在宅、在世という言葉から連想されるように、社会的な意味合いを含んでいる。つまり、何かが存在するというのは、なんらかの人間関係を予想させる。人間関係の本質は和辻によれば、間柄ということであった。従って何かが存在するということは、人間の間柄において存在するということを意味する。人間の間柄を離れては、何者も存在しないのである。

以上から和辻は、次のような結論を導く。「以上の如く『存』はその根源的な意味において主体の自己把持であり、『在』は同じく根源的にその主体が実践的交渉においてあることを意味するとすれば、『存在』が間柄としての主体の自己把持、すなわち人間が己れ自身を有つことの意であるのは明らかであろう。存が自覚的に有つことであり在が社会的な場所にあることであるという点を結合すれば、存在とは『自覚的に世の中にあること』にほかならぬとも言える・・・従って我々が存在をいうとき、それは厳密に人間存在を意味している。これが我々の存在概念である」

和辻の存在をめぐる議論は、人間という概念を明らかにするという文脈のなかで展開されているので、やや偏りのあることは否めないと思うが、いずれにしても、あらゆる存在を人間存在によって基礎付けるという目的に貫かれているといえよう。その目的を達成する一番近道として和辻はことば遊びを弄するわけだ。その議論を追っていると、どうも空中サーカスを見せられているようで、地についていないという印象を受ける。





HOME日本の思想和辻哲郎次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである