知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カントの問題意識:ヒュームとの対決


カントがヒュームによって独断のまどろみから目覚めたと告白していることは、哲学史上有名なことである。ドイツ哲学をあまり評価していないラッセルもそのことを、カントにとってよかったと評価している。もっともラッセルは、その目覚めは一時的なもので、カントは催眠術を発明して再び眠りにつくことができたと皮肉っている。

この告白について、カントは「プロレゴメナ」の序文の中で次のように言っている。「私は率直に告白するが、上に述べたデーヴィッド・ヒュームの警告こそ十数年前に初めて私を独断論の微睡から目覚めさせ、思弁哲学の領域における私の研究に、それまでとは全く異なる方向を与えてくれたものでる」(篠田英雄訳)

ところがこれに続く部分でカントは、「とはいえ彼の結論に関しては、私は彼にとうてい聴従することができなかった」(篠田訳)と書いている。この部分がラッセルにとっては、再度カントを眠りにつかしめた動機なのだということになろう。同時にそれは、その後のドイツ哲学にとっての出発点を提供することになった、と評価することもまた可能である。

ここでカントが言及しているヒュームの主張とは次のようなものである。人間の認識はすべて経験に根差すのであり、したがって主観的なものに過ぎない。その主観的なものが客観的であるかのように映るのは仮象に過ぎないのであり、その仮象を実在と取り違えるのは独断のまどろみなのだと。

それ故、原因と結果の関係についても、多くの人はそれがアプリオリな客観的法則のように思っているがそうではない。アプリオリどころかあくまでも経験の産物なのであり、単なる連想、すなわち観念の主観的な結合にすぎないのだ。原因と結果の関係と思われているものはすべて、時間的な前と後の関係に過ぎない。それが頻繁に生起するために、あたかも原因Aによって結果Bが引き起こされたかのように思い込まれているだけである。

ヒュームのこうした考え方に対して、カントはその土台となる経験論的な見方には賛同する。人間の経験の主観性を認めることで、主観的な産物をあたかも客観的な実在のように思いなす独断論から目覚めたわけである。しかしその土台から導かれる結論については、カントは強く反対した。

人間の認識は、ヒュームのいうように主観的な経験を超越できるものではないが、だからといって必然性や普遍性を持たないということにはならない。因果関係の中には、たんなる主観的な連想を超えた客観的で普遍的かつ必然的なものがあるはずだ。その普遍性・必然性は、たとえば数学の普遍性・必然性とよく似ている。人間の認識にはそういったものが備わっているのだ。でなければヒュームのいうように、泥沼の不可知論に陥るだけだ。カントはこう考え、人間の認識における必然性や普遍性の根拠を為すものは何か、ということの究明に全力を挙げた。「純粋理性批判」はそうした究明の過程を明らかにしたものである。

こうしたわけで「純粋理性批判」は、人間の認識の主観的・経験的な制約を前提にしつつ、そこに必然的・普遍的な認識が生じてくる過程とその条件とについて考察したものである。

カントの問題意識をこのようにとらえると、その哲学史上の立ち位置が良く見えてくる。ヒュームのいうように、人間の認識を主観との関係でとらえるというやり方は、イギリス経験論の伝統を踏まえたものだ。だが人間の認識に主観を超えた客観的で普遍的な性格を求めるところはライプニッツにおいて結実した観念論の伝統を尊重したやり方だ。カントはこの二つの流れを融合させたわけである。だからカントは経験論を観念論の枠組みに押し込んだとも、その逆に観念論を経験論に継ぎ足したともいわれる。そこがラッセルの目には中途半端な折衷として見えたのかもしれない。

カントのやり方は非常に手が込んでいるように見えて、意外に単純なものだ。カントは、経験論と観念論を不毛に対立させるのではなく、その両者の良いところだけを取り出して、融合乃至接続させるのである。そうすることによって、観念論にありがちな独断論を避けるとともに、経験論がとかく根無草の議論に陥り、場合によっては不可知論に陥る危険から救おうというわけなのだ。

その場合のカントの切り札は、アプリオリとアポステリオリ、分析的と総合的という二組の対概念だ。アオプリオリとは経験に先立って先天的に与えられたもののことであり、アポステリオリとは経験を通じて与えられるものである。アプリオリな概念は普遍性・必然性を持つのに対して、アポステリオリな概念はそうした性格をもたない。

一方、分析的とは述語の内容が主語の概念のなかに含まれているようなものを言う。たとえば太った人間は人間である、という言説は分析的な判断を表す。それに対して総合的な判断とは、経験によってふたつの事柄が結びつくようなものである。たとえばナポレオンはフランスの皇帝であった、という言説は、歴史的な経験を踏まえたアポステリオリで総合的な判断であるということになる。

通常、アプリオリと分析的とが結びつき、アポステリオリと総合的とが結びつく。観念論はアプリオリな分析判断を重視し、経験論はアポステリオリな総合判断を重視するというわけだ。ところが判断の中には、アプリオリでありながらかつ総合的な判断がありうる。たとえば五+七=十二という代数の式を例にとると、五、七、十二という三つの数字には何ら必然的な繋がりがなく、したがってこの式の発する言明は総合的な判断であるということができる。でありながら、この式がアプリオリな真理を表していることは明らかだ。

カントはこうした議論を踏まえて、人間の認識の中には経験に根差しながら、つまり総合的な認識でありながら、かつアプリオリなものがあると考えた。そのアプリオリな性格が、人間の認識をヒュームの不可知論から救ってくれる切り札になる、カントはそう考えたのである。




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