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アプリオリとアポステリオリ:カントの純粋理性批判


アプリオリとアポステリオリという一対の概念はカント哲学の基礎をなす重要な装置というべきものである。カントの基本的な問題意識は、人間の経験に必然性と普遍性を保証するものはなにかということであったが、それをときあかす鍵として、アプリオリとアポステリオリの相互関係というアイデアを思い付いたのだといえる。

ところがこれらの概念が明確に定義されているかというと、必ずしもそうではないという印象を受ける。特にアプリオリの概念についてそうである。

カントは「純粋理性批判」の序論の中で、アプリオリとアポステリオリを定義づけているが、それが非常にあっさりとした定義なのである。カントは言う。「本書でアプリオリな認識と呼ぶときには、それは個々の経験から独立した認識という意味で理解するのではなく、すべての経験から独立した認識という意味で理解していただきたい。こうした認識と対立するのが経験的な認識であり、これはアポステリオリに、すなわち経験によってはじめて可能となる認識である」(中山元訳)

ここでカントが言っていることは、人間の認識は経験によるものと経験から独立したものとに大別され、前者をアポステリオリ、後者をアプリオリという、ということである。では経験から独立した認識とはどういうものか。カントは数学的な認識をその一例としてあげているだけで、アプリオリと言う概念について、徹底的に解明しているわけではない。

というのも、アプリオリという言葉は、別にカントが初めて用いた言葉ではなく、哲学史上の用例があり、その内実については広範な了解があったために、いちいち細かく定義しなくともよいと、カントは考えたのではないか。

ただその場合でも、アプリオリという言葉は従来「生得的」あるいは「先天的」という意味合いで使われていたので、それとの相違は強調しておく必要はあった。そこでカントは、アプリオリを「生得的」あるいは「先天的」という意味ではなく、「経験から独立した」という意味合いに変えて定義づけたのだと思われるのだ。

「経験から独立した」というのは、人間の認識作用そのもののなかに根源的あるいは生得的に備わっているという意味あいである。人間は経験による認識のほかに、経験的な素材を全くまじえずに、純粋な認識作用を行うことができる。論理学の命題や数学の式などはその例である。それがカントにとってのアプリオリの意味なのである。

アプリオリの本質的属性としてカントは「必然性」と「普遍性」をあげている。

まず、「必然性」については、「第一に、ある命題が同時に必然的なものとして考えられる場合には、それはアプリオリな判断であるとみなされる」

これはどういう意味か。「世の中には必然的なものはある。そしてあるものが必然的であれば、それはアプリオリな判断によって支えられている」ということなのだろうか。

しかし「世の中には必然的なものはある」という命題は自明な命題ではない。ヒュームは、人間の認識は経験の範囲に限られるものであり、その経験の範囲からは必然的なものは生じないといっていた。だからヒュームの議論を反駁するには、なぜ世の中に必然的なものがありうるのかをまず説明しなければならないと言えよう。ところがカントは根拠づけとして説明しなければならないことを、根拠として前提にしている、としか言えないのではないか。

次に「普遍性」について。「厳密な意味で普遍的な命題であり、そもそも例外というものが起こり得ないような命題であれば、それは経験によって得られた命題ではなく、絶対的な意味でアプリオリに妥当する命題である」

これにも「必然性」について見たのと同じような問題が潜んでいるが、必然性が因果関係を思い起こさせるのとは違って、論理的な整合性を思わせる色彩が強いといえる。

たとえば、数字の1と1を足せば2になるということについて考えてみよう。カントによれば、これはいついかなる場合にもあてはまる普遍的な命題であり、1+1が3になったり5になったりはしない、つまり例外なく2になるはずである。このような命題はだから、経験によって得られた命題ではなく、アプリオリな命題だと言える。なぜなら経験によって得られた命題には、ヒュームがいうように、普遍性は主張できないからだ。

これが随分苦しい弁明に聞こえるのは筆者のみではあるまい。カントはここでも、アプリオリを定義したうえでその本質属性としての「必然性」や「普遍性」を議論するという王道を避けて、「必然性」や「普遍性」が存在することを前提にしたうえで、その「必然性」や「普遍性」を帯びているものがアプリオリだと言っているに過ぎないのではないか。つまり一種の論点先取りだ。

カントはアプリオリな認識の例として数学や物理学を考えていた。数学の命題には「必然性」と「普遍性」がある。それは経験にもとづくのではなく、それ自体のうちに根本的に備わっているのだと考えないわけにはいなかい。そのようなものをカントはアプリオリと呼んで、人間の認識に必然性と普遍性を付与するための根拠づけに使ったのだと思われる。

カントがアプリオリという概念を持ち出してきた背景に、ヒュームの不可知論を克服しようとの意思が働いていたのは確かなことに思われる。

経験によっては必然性や普遍性は根拠づけられないとするヒュームの言い分はもっともだ。しかし世の中には数学や物理学の命題のように、必然性と普遍性を主張できるものがあるではないか。それを素直に認めよう。その上で人間の認識についても、必然性や普遍性を主張できるように、学問を再構築しようではないか。これがカントの本音の考えであり、それをスマートに説明するための原動力として、アプリオリと言う概念を持ち込んだわけなのであろう。




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