知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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理性と理念:カントの純粋理性批判


「純粋理性批判」の題名にある理性とは広い意味での理性を指している。即ち、感性、知性を含めた人間の思考と認識のすべてをカバーする精神作用としての理性である。これに対してカントは、理性という言葉を狭い意味でも使っている。狭い意味での理性とは、感性や知性とは異なる次元の精神作用を指す。感性や知性が人間の認識活動にかかわる能力なのに対して、理性は知性による経験的認識の成果を材料にしつつ、経験を超えた思考を可能にする能力である。

この理性という能力は、一方では、人間の思考の範囲を拡大させ、世界についての理解を深化させるというプラスの効用を持つとともに、他方では、人間の思考を誤った方向に導くというマイナスの効用を持つ。つまり、人間にとって両義的な意味合いを持ったものなのだ。カントが、理性の考察に際して最もこだわったのは、この両義性について、なかでもマイナスの側面についてなのである。

そこで、理性のマイナスの側面とはどのようなもので、それがどのようにして生じるのか、ということが問題になる。

カントはこの理性が呈するマイナスの姿を「超越論的な仮象」と呼んでいる。それは、「批判のあらゆる警告を無視して、カテゴリーの経験的な利用の領域の外へとわたしたちを誘い出し、純粋な知性を拡張するというごまかしで惑わせるのである」(中山元訳、以下同じ)

「超越論的な仮象」とは、理性がその能力たる推論を用いて、個別的な概念を普遍的な概念に包摂する作用を繰り返しているうちにたどり着くものである。その意味では、理性に内在するメカニズムに従って必然的にもたらされるものである。にもかかわらずそれが仮象となるのは、単に思考の結果にすぎないものを、客観的な実在性があるかのように、人間が錯覚することに原因がある。

カントは、認識と思考とは異なる、と繰り返し言う。認識とは直感において与えられた対象にカテゴリーの枠組を当てはめて得られるものであり、その限りにおいて客観的な実在性を主張できる。それに対して思考とは、様々な概念を組み合わせて行う純粋に主観的な活動である。その主観的な活動の成果である主観的な概念に、客観的な実在性を付与したがること、そこに仮象が生まれてくる理由がある、とカントは見るのである。「直接に認識されたものと、推論しただけのこととは違う」というわけだ。

しかしこの仮象というものは、それが仮象とわかっていても、なかなか存在することをやめようとはしない。なぜなら、「純粋な理性には、ごく自然で不可避な弁証論というものがつきものなのである・・・これは人間の理性に付きまとって、追い払うことが困難な弁証論であり、その欺瞞を暴露したあとでも、人間の理性を誑かしつづけ、たえず一時的な混乱に陥れるものなのである」

つまり、人間というものは、様々な概念について、それを様々に組み合わせることで、様々な推論を行い、その推論の末に、世界の意味を説明できるような、非常に高度な概念を得ようとしたがるものなのだ。そうカントは言っているわけである。

この、世界の意味をスマートに説明できるような高度な概念は、従来形而上学の対象となってきたものだ。それら形而上学上の伝統的な概念について、カントは自分の立場からの批判を加える。そこがカントの理性批判の最大のヤマ場である。

カントはこの理性概念を、プラトンに従って理念(イデア)と名付けた。人間の思考の産物でありながら、あたかも人間とは別のところで独立して存在しているかのような外観を持つ、そこがこの概念のもつ仮象性を物語っている。そう考えてのことと思われる。

理念には様々な段階のものが考えられるが、カントが究極の理念として挙げているのは三つである。実体としての心、因果系列の端緒としての宇宙の始まり、そして世界の存在根拠としての神である。これらは、伝統的な形而上学においてはおなじみのテーマであり、何故それらが考察の対象となるのかは、自明で議論の余地のないものだったのだが、カントは、自分なりの理屈を用いて、これらがなぜ、究極の理念であるのかについて、特別の議論を展開している。

この三つの理念を引き出す方法は二つある。一つは推論の形式によるもの、もう一つは観念における主体や客体に注目した方法である。

カントは理性の推論の形式を三通りに分類している。判断表の関係のカテゴリーに対応させて、断言的推論、仮言的推論、選言的推論の三つである。断言的推論からは実体の理念が生まれ、仮言的推論からは宇宙の根源的な端緒と言う理念が生まれ、選言的推論からは世界の存在根拠としての神と言う理念が生まれる。(細かい議論は、ここでは省略する)

一方、観念は主体及び客体と三つの関係を持ちうる。「第一が主体との関係であり、第二が現象における多様な客体との関係であり、第三があらゆる物一般との関係である」ここから三つの理念が生まれる。「第一の理念(心)は、思考する主体の絶対的な(無条件な)統一を含むものである。第二の理念(宇宙)は、現象の条件の絶対的な統一を含むものである。第三の理念(神)は、思考一般のすべての対象の条件の絶対的な統一を含むものである」

こうして生まれてきた理念が何故、人間にとって仮象に陥るのか。上述したように、人間の思考の産物に過ぎないものに、実在性を持たせようとする人間にそなわった性癖に理由があるとカントは考えるのだ。その結果、考える主体としての「わたし」は、実体としての「こころ」となり、それは更に「人間の霊魂の不死」という理念に転化する。同じようにして、宇宙の因果関係の全体性の議論は、「人間の意思の自由」をめぐる果てしない議論へと転化し、「神」の概念には「存在」の概念が結びつくのである。

カントは、この三つの理念に潜む欺瞞性を暴く。そして、「人間の魂の不死」にかんする議論を「誤謬推論」と名付け、宇宙の起源と人間の意思の自由に関する議論が「アンチノミー」に陥ると証明し、神の存在にかんする議論を「純粋理性の理想」と称して、これらの議論の限界を明らかにしようとする。

理念の限界を明らかにすることが、人間の理性の限界と、その限界の内側での可能性を明らかにすることにつながることは、いうまでもないだろう。


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