知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板


理性の実践的使用:カントの実践理性批判


純粋理性批判の目的は、理性の限界を定めることであった。それは、神や自由や魂の不死といった形而上学的な理念について、認識の対象としては語り得ないということを証明することで、理性が不毛な議論を展開することに待ったをかけた。しかし、だからといってカントは、こうした理念そのものの存在意義を否定したわけではなかった。こうした理念は、理性の理論的な対象とはなりえないとしても、実践的な対象とはなる。カントはこのように考え、神や魂の不死といった理念を救い出すのである。

「純粋理性批判」第二版の序文にある「信仰の場所を作るために知を破棄しなければならない」という言葉は、そうした事情を雄弁に物語っている。つまりカントは、信仰を知とは別の問題だとする点で、神の存在を理論的に証明しようとしたデカルトとは異なり、神を信仰の問題ととらえたパスカルと同じ立場に立つわけである。

しかし、同じく神を信仰の問題と捉えるにせよ、カントはパスカルとはかなり違った捉え方をしている。パスカルにとって、信仰は知とは別の次元に位置する事柄だった。それ故人々は、知と信仰との間にある深い溝を飛び越えなければ、神の前に膝まづくことはできなかった。だが、カントにとってはそうではない。信仰はなるほど理性の理論的な使用とは異なった次元のものだが、理性そのものを超越した事柄ではない。それは、理性の実践的な使用にかかわることがらなのであり、その限りで理性の対象なのであった。

何故そんなことがいえるのか、こうした疑問に対しては、人間が神や魂の不死といった理念を問題にするのは、人間のなかにそうした理念への希求があるからなのであり、そうした理念を生み出すものとしての実践理性が存在しているからだと答える。実践理性とは、人間の知的活動ではなく、意思の活動を制約するものであるが、この人間の自由な意思が、普遍的な道徳法則と深い関係を持ち、そこから神や魂の不死と言った理念を生み出すのだというのである。

こんなわけであるから、実践理性批判という書物は、純粋実践理性が存在することの証明から始まり、実践的な理性(いいかえれば純粋理性の実践的な側面)がいかにして普遍的な道徳法則に従って活動するかについての議論を展開していく。その際にカントは、定義や定理と言った幾何学のタームを援用し、この議論が演繹的であることをことさらに強調している。スピノザの例にならったのだと考えられる。

実践理性批判を理解するカギとなるのは、道徳法則を巡る議論である。これは個々の人間の道徳的な行為に対しての枠組となるような普遍的な総則であると捉えられている。人間は個々の経験的な事態に際して、自分の幸福が増進されるように行為することは当然のことであるが、そればかりではなく、普遍的な道徳法則に反しないように、というより、積極的に一致するように行為しなければならないと、内心において感じている。普遍的な道徳法則に一致するように行為することによって、自分の行為は単に自己愛を超えた客観的な妥当性を獲得することができる。そういうわけである。

カントの特徴的なところは、この普遍的な道徳原則を、経験的な概念としてとらえるのではなく、アプリオリなものとしてとらえるところにある。つまり、道徳法則とは社会生活の都合から人間がアポステリオリに作り上げてきたものではなく、そもそも人間に先天的にそなわったものだと考えるわけである。

これは、純粋理性の理論的な分野におけるアプリオリなものとパラレルな関係にある。理論理性においては、感性の形式としての時間と空間、知性の概念枠組としてのカテゴリーが考えられたように、実践理性においては、道徳行為の判断枠組としての道徳法則なるものが、人間には先天的に備わっている、そう考えるわけである。

理論理性が個々の経験をアプリオリな判断枠組に当てはめることにより、普遍的で客観的な認識を獲得するように、実践理性は個々の道徳的な行為をアプリオリな道徳法則に当てはめることによって、普遍的で申し分のない道徳的行為を行うことができる。

しかし、この道徳法則なるものについて、カントはカテゴリー表をめぐってのような詳細な議論は展開していない。ただ、人々はひとつひとつの行為を為すにあたっては、ただ単に自分の作った確率に従うだけではなく、それが普遍的な道徳法則とも一致するように心がけねばならないと言っているだけである。面白いのは、人間にアプリオリに備わっているとされるこの道徳法則には、神や魂の不死といった理念がビルトインされているということである。

もっともカントは、この道徳法則を、まったく形式的なものだといってもいるから、それが時代や社会状況に応じて、変化することの可能性を除外しているわけではないともいえる。

こうしてみると、カントは、認識の対象は理性の理論的な能力に、意思の対象である理念については理性の実践的能力に関連付ける一方、その両者に共通する判断の枠組として、アプリオリな能力を持ち出しているわけである。

つまりカントは、個人としての人間と類としての人間との間にある関係の原則と、それを踏まえた係わりのあり方について、論じているのだと総括することができよう。


HOMEカントとドイツ観念論次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2013
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである