知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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不安と絶望:キルケゴールの思想


キルケゴールにとって、主体的実存に生きる人間の本来的なあり方とはキリスト者としてのあり方である。それも世間一般で当然のこととして考えられているように、キリスト教会の一員として、日曜日には牧師の説教を聞き讃美歌を歌うようなあり方ではなく、単独者として神と直接向き合うようなあり方である。しかしそのようなあり方は、世間一般が考えている程簡単なことではない。世間一般は教会で洗礼を受けさえすれば真のキリスト者になれると考えているがそうではない。人が真のキリスト者になるためには飛躍が必要である。そしてその飛躍を成し遂げるのには強い意思が必要である。人間というものは、この強い意志によって飛躍することにより単独者となり、そのようなものとして神と直接向き合うようになれるのである。

このように、人間というものは生まれながらにキリスト者であるのではない。彼はキリスト者になるのである。キリスト者ではない状態からキリスト者である状態へと移行する、すなわち己自身を非キリスト者からキリスト者へと生成させるのである。彼はキリスト者であるのではなく、キリスト者へと絶えず生成する人間なのである。であるから、どんな人間の生涯にも非キリスト者としての時期がある。そういう時期にいる人間の状態を、キルケゴールは罪と称する。世間一般の人々は、罪というとすぐアダムの原罪を思いだし、自分たちはそのアダムの犯した原罪を相続しているのだというが、それはあたかも自分にとって、罪がよそ事であるかのように思いなすものだ。だが罪はよそ事ではない、自分自身が生み出しているものなのだ。何故なら人間として生まれて来ながらキリスト者として生きようとしないこと、それが罪だからである。

罪の状態にある人間は、不安を覚えるようになる。というか罪が不安を生むのである。人間として生まれながらキリスト者として己を生成できないでいる状態は、その人間にとって本来的な形から逸脱した状態である。その逸脱が不安の感情を呼び起こすのである。痛みが病気の治療を促すように、不安は心の平安へむけての意思を呼び覚ます。心の平安をもたらすものは、キリスト者としての自覚しかありえない。それ故、人は不安に駆られることを契機として、キリスト者へと自己を生成させていくのである。

だが、不安がキリスト者への生成につながらない場合がある。たとえばキリスト教国に生まれながら、なおかつ真のキリスト者になろうとしない人間がいるとする。そのような人間は、キリストの存在を理解していながら真のキリスト者になろうとしないのであるから、罪の度合いはずっと強くなる。そのような人にとって、罪は不安をもたらずばかりか、もっと強い状態、つまり絶望をもたらす。絶望とは不安より更に高度の罪の状態を指すのである。

こういうわけで、キルケゴールはキリスト者でない状態やキリスト者であろうとしない人の状態を取り上げ、それを罪の概念で説明しながら、その罪にともなう人間の状況を不安とか絶望といった概念で説明する。「不安の概念」と「死に至る病」はそういう意図に基づいて書かれた。そのようにとらえると、これらの著作が理解しやすくなる。

「不安の概念」で扱われている罪は比較的程度の軽い罪である。たとえば異教徒とか精神的に幼稚な人の罪。異教徒はもともとキリストの存在を知らないのだから、無知であり、したがって無責である。知らないものに責任は取れない。一方、キリスト教徒でありながら精神的に幼稚な人は、キリストの存在を知りながらその真の意味を知らない。彼がそれを知らないのは精神性に著しく欠けているからだ。人間というものは精神的な生き物であるのだが、その精神性にはグレードがあって、高い精神性から低い精神性、果ては無精神性まで様々な段階がある。無精神の人に至っては、キリスト教徒でありながら真のキリスト者となることができないのである。

だが、無知や無精神の人でも不安を覚えることはある。不安は真のキリスト者になるための一つの、しかし重大なチャンスなのだ。そこでキルケゴール独特の不安論が展開される。たとえば不安には客観的な不安と主観的な不安があるといったり、無精神の不安と弁証法的に規定された不安があるといったりする具合だ。その中で最も興味深いのは、不安の心理学的な説明に関わる部分だ。

不安は恐怖とは違うとキルケゴールは言う。恐怖には明確な対象がある。たとえば目の前に猛獣がいて今にも跳びかかってきそうな気配がある。その気配が私のなかに恐怖を呼び起こすのである。そのような明確な対象を持たない恐怖というものはない。明確な対象を持たない恐怖は幻覚と呼ばれる。

不安にはそのような明確な対象がない。わたしは、どういうわけか理由を明らかにできないが、ただ何となく不安なのである。しかし私が不安になるのは、私がいささかでも精神を持っているからである。先ほど無精神という言い方をしたが、それは比喩的表現であって、人間であればまったく精神を持たないということはありえない。しかしそれにもグレードがあるのは上述のとおりである。そのグレードに応じて不安の程度も違ってくる。「精神が少なければ少ないほど不安はそれだけ少ないものになる」(「不安の概念」原佑、飯島宗享訳)

「死に至る病」で扱われている罪は、もっとずっと程度の重いものである。キリスト教徒の中には、自分がキリスト者としての真のあり方から逸脱していることを自覚しながら、しかも真のキリスト者になろうとせず、そのままの自分であることに固執する人がいる。そのような人の罪は計り知れないほど重いのである。そのような罪が引き起こすのは、不安といった生易しいものではなく、絶望である。

絶望は精神の病であり、自己における病である、とキルケゴールはいう。しかももっと悪いことに、絶望は死に至る病なのだ。死に至る病といっても、最期には死が救いとなる病という意味ではない。そういう意味の病なら他にもたくさんある。絶望が死に至る病だというのは、死に向かって進みつつあるけれども永遠に死ぬことがない、そういう病である。ということは、「死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っているということなのである」(「死に至る病」桝田啓三郎訳、以下同じ)

これを他の言葉でいえば、「永遠に死ぬという、死にながらしかも死なないという、死を死ぬというこの苦悩に満ちた矛盾であり、自己における病なのである・・・絶望とは、まさに自己を食い尽くすことに他ならず、しかもみずからの欲するところをなしえない無力な自己食尽なのである・・・自己自身について絶望するというあからさまな絶望があらわれる」ということになる。

だが、不安が心の平安を取り戻そうとする意思を掻き立てる場合があるように、絶望にも、真のキリスト者になるように人を転回させる場合がある。それは人間のうちに、永遠なものが存在しているからである。逆に言えば、「もし人間のうちに永遠なものがないとしたら、人間は決して絶望することはない」。絶望した人間は、「絶望して自己自身から抜け出そうと欲する」ことで、自分を裸にして神と直接向き合うきっかけをつかむことが出来る。したがって、絶望したからといって、その先には何の救いもないということではない。救いの手はいつでも差し伸べられる。それに向かって自己自身が飛躍すればよいのだ。




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