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キルケゴールとドイツ・ロマン主義


キルケゴールの学位請求論文は「イロニーの概念」をテーマにしたものだった。この概念は究極的にはソクラテスに淵源するものであるが、キルケゴールの生きた時代に一定の影響力を振るっていたドイツ・ロマン主義が、自分たちの方法として採用していたものである。このことから、キルケゴールはドイツ・ロマン主義に関心を抱き、それから一定の影響をうけたと考えられる。

ロマン主義は、18世紀の末から19世紀の前半にかけて、ヨーロッパ諸国で前後して盛んになった文藝上・思想上の運動であるが、統一した理念と言ったものはなく、どちらかと言うとまとまりのないものであった。強いて共通する点を挙げるとするなら、反近代ということだろう。すなわち人間を理性的な生き物として捉え、世界を合理的な体系として説明するのが近代の特徴だとしたら、それを否定して、人間や世界の非合理的な側面を強調するというところに、ロマン主義の最小公倍数的な共通点があるといえる。

ドイツのロマン主義についていえば、反近代の動きは次のような形をとった。ひとつには、カントからフィヒテを経てヘーゲルに至る合理主義的な哲学の否定である。この合理主義的な哲学体系は、世界と理性との究極的な一致を主張し、この世には基本的に説明できないことはないとする立場をとるものであったわけだが、ロマン主義の思想家たちは、この世には理屈で説明できないことが沢山あるのだと主張した。いったい人間というものにしてからが、カントやヘーゲルのいうような理性だけで動く存在ではなく、非合理的な衝動に従って生きるものである。人間は理性的な存在である以上に、感情的な存在である。そういって、人間や世界のあり方の非合理的な面を強調したのが、ドイツのロマン主義であった。

次いで、ゲーテに代表されるような古典主義的な文藝の否定である。ドイツの古典主義は、人間を理知的な存在であると位置づけたうえで、そのような人間が自己の可能性を最大限実現する過程に注目した訳であったが(教養小説はそうした考えから生まれた)、ドイツのロマン主義はここでも、人間の理知的な面よりも非理知的な面を強調した。哲学における非合理主義的な側面に対応して、文藝の面では非理知的・情動的側面を強調したわけである。

また、政治的には、フランス革命やアメリカの独立運動が宣言していた人類の普遍的な原理などというものに疑問を呈した。人間というものは、人類の普遍的な原理のみに従って動くものではないし、仮にそんな動きをしたとしたら、それは災いしか招かないであろう。実際フランス革命は、人類の普遍的原理という題目のもとに、人類を野蛮な状態に巻き込んだに過ぎない。こういって彼らドイツのロマン主義者たちは、政治的に反動的な立場をとることが多かった。

このように、ドイツ・ロマン主義の特徴は近代の否定即反近代ということにあったわけだが、その否定の原理を体現していたのが「イロニー」の概念であった。「イロニー」というのは否定性をいうのである。その否定性としてのイロニーにキルケゴールは飛びついて、自分の哲学的な思索のエンジンとした。彼もまたイロニーを駆使することで、近代の様々な側面を否定し、そこから人間にとって真に重要なことは何なのか、それを明らかにしようとしたわけである。

だが、キルケゴールがドイツ・ロマン主義と共同歩調を取るのはここまでである。ドイツ・ロマン主義を通じてイロニーの概念に到達したキルケゴールは、それをドイツ・ロマン主義とは異なったやり方で適用したのである。

ドイツ・ロマン主義がイロニーを駆使して近代を否定した先に見つけたものは何であったか。それを簡単に言うことはできない。というのも彼らの間で共通した理念というものを見つけるのが難しいからだ。彼らの理念なり目標なりは一人一人異なっている。あるものにとっては、それはゲルマンの太古の精神に帰ることであったし、あるものにとっては野性的な人間に価値を認めることであった。要するに近代を感じさせないものであれば、何でもよかったのだ。

ところが、キルケゴールがイロニーを駆使して、(ヘーゲルに代表されるような)近代を否定した先に見つけたものは極めてユニークなものであった。それは、神の前で単独者として立つ孤独な人間のイメージだった。キルケゴールはその孤独な人間の生き方を問題にして、それを主体的な実存と呼んだ。彼にとって本質的に重要なのは、近代の思想家たちのように、世界を解釈することではなく、世界の中で自分自身を生きぬくことだった。その生きるということがら、それに徹底的にこだわることで、とかくワン・ノブ・ゼムとして扱われがちな人間をオンリー・ワンとして見ようとしたわけである。

このように整理すると、キルケゴールも、ドイツ・ロマン主義という大きな時代の流れの中にあって、その一つの変種として分類できるのかもしれない。


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