知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ライプニッツの論理学


ライプニッツはアリストテレス以来の伝統的な論理学に対して、大きな風穴を開けた最初の哲学者だった。それは論理的思考をカテゴリーや推論の形態において捉えるのではなく、主語と述語という人間の対象認識のパターンに即して考えるものだった。

この考え方は今日の記号論理学につながる。しかしライプニッツ自身は生前、それを公表しなかった。新しい論理学を適用すれば、アリストテレスの論理学と全く異なった帰結をもたらすこともあるのだが、ライプニッツはアリストテレスに余りにも敬服していたので、自分のほうが間違っているに違いないと、謙遜したのである。もし彼がそれを公表していたら、論理学は違った発展を遂げたかもしれない。

人間(少なくともヨーロッパ言語を用いる人々)は、対象を認識してそれを言語で表現する場合、主語―述語という形で表す。この場合、述語としては決して用いられることがなく、主語としてのみ用いられるものがある。これが実体である。このようにライプニッツの実体概念は、論理学と密接に結びついている。

主語―述語で表される命題には、一般命題と個別命題がある。一般命題とは、たとえば「すべての人間は死すべきものである」といった普遍的概念についての命題であり、個別命題とは、「ソクラテスは死すべきものである」といった個別的な事象に関する命題である。

ライプニッツが主に考察の対象としたのは、個別命題のほうであった。この命題にあっては、述語はあらかじめ主語の中に含まれている。これは今日の記号論理学で言えば、主語と述語とは包摂―内包の関係にあるということだ。ライプニッツ自身によれば、述語の指示するものが、主語によって指示される実体概念の一部をなしているということになる。

述語が主語のうちに含まれているような命題は分析的命題と呼ばれる。ライプニッツはこの分析的命題を根拠として矛盾律と充足理由律を自分の哲学の基礎とした。矛盾率は「すべての分析的命題は真である」ということを述べており、充足理由律は「すべて真なる命題は分析的である」ということを述べている。

分析的命題は、あらかじめ特定の述語を内包した主語を、その述語との関係において取り上げたものだから、「AはBである」と言明することは「AはBを内包している」と言明することと同義である。つまり一種のトートロギーである。だから、それが真なる外観を呈することは当然のことだといえる。ライプニッツの面白いところは、この分析的命題を可能な限り綿密に調べ上げることによって、概念の完全な定義を導き出そうと努めていることである。

ライプニッツによれば、十分で十全な概念とは、ある主語に含まれているあらゆる述語を把握するに足るような概念のことである。ある主語にはおよそさまざまな述語が内包されているが、その中にはそれを捨象しても主語の主語としての本質に影響しないようなものもあれば、それを捨象すると主語が主語として成り立たないようなものもある。

たとえばアレクサンドロスについていえば、「散歩した」という述語がなくともアレクサンドロスは可能であるのに対して、「人間である」という述語を取り除くと、アレクサンドロスであることは成り立たないといった具合である。

述語の中でもっとも重要なものは「存在する」というものである。なぜなら存在と非存在とは、事象にせよ概念にせよ、その基本にかかわることだから。人は存在しないものにも言及はできるが、それが意味を持つことはない。意味をもった概念とは、実際に存在するものについての概念なのである。

ところでなぜあるものは存在し、あるものは存在しないのか。たとえばAというものは、存在することが可能であるが、しかし存在しないこともありうる。ではなぜAは存在するのか。ライプニッツはいう、それが存在しうるのは、その存在がほかの存在と抵触しないからであると。

というのは、概念の中には、互いに相容れないものがあって、一方が存在すれば他方の存在が成り立たないような組み合わせが多数ある。AとBとが互いに矛盾した言明を含んでいて、一方が存在するとしたら、他方の存在が論理的に成り立たないような関係である。

だからライプニッツにとって存在するものとは、自分とは両立しえないほかのものよりも、より多くの事物と両立しうるようなものをいうのである。

読者にはこの議論は非常に奇妙に聞こえるだろう。ライプニッツは存在を、人間の経験的認識の問題として捉えるのではなく、純粋に論理の問題として扱っているのだ。つまり言語のシンタックスから実在世界を推論しているわけである。

この逆立ちしているかに見える議論は、観念論のもっとも洗練された形態だといえる。



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