知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ライプニッツの神


ライプニッツが真情から神の存在を信じていたかは疑わしい。なるほど彼は「弁神論」を始めさまざまな機会に神の存在に言及し、その証明まで試みてはいる。しかしそれらを読むと、神の存在はライプニッツにとって崇高で威服すべきことであるというよりは、彼の論説の支えとなるような位置づけを与えられているように見える。

このことは特にモナド論との関係において著しい。世界は無数のモナドからなっており、そのうち力強いモナドの組み合わせが顕現して、我々の目に見える世界が生じているが、本来相互に無関係なモナドがどうして協働したり影響しあったりするように見えるのか。それはそこに神の摂理が働いているからだ、こういうことによって、ライプニッツは自分の学説を補強するために、神を持ち出しているようなところがある。

いわば神をダシに使って、己の説の権威を高めようとしているとも、受け取れるのである。

それはさておき、ライプニッツによる神の存在証明は、バートランド・ラッセルによれば、四つのパターンに分類できる。一つ目は本体論的証明、二つ目は宇宙論的証明、三つ目は永遠の真理よりする証明、そして四つ目は予定調和よりする証明であり、これはモナド論と密接な関連がある。

本体論的証明は神の存在に関する伝統的な議論であって、デカルトもそれに依拠している。すなわち完全なものとして定義された神の本質は、必然的に存在を含意している。なぜなら存在を含まないものは完全とはいえないからだ。

ライプニッツはこの説が空論に終わることを懸念して、この種の議論は、そのように定義された神が可能であるという証明によって補われる必要があるとした。ライプニッツによれば、あらゆる概念は、それがほかのいかなる概念とも両立不可能でないかぎり、存在が可能と考えられるが、神の完全性はどんな概念とも矛盾しない、よって神の存在が不可能だとはいえない。このことから、存在を含むあらゆる完全性の主語としての神は存在するという結論が導き出される。

こうした議論に対して、カントが「存在は述語ではない」と反駁したことはよく知られている。

宇宙論的証明も、アリストテレス以来の伝統的な議論である。すべての有限なものには原因があり、その原因は更に別の原因を有している。このような原因の系列をどこまでも遡っていけば、原因を持たない原因、すなわちあらゆる事柄の端緒になったものに行き当たる、それが神であるといった議論である。

ライプニッツはこの議論を更に拡大して、宇宙というものが存在することも存在しないことも可能であったのに、それが存在するようになったのは、外部からの原因に基づいているのだと主張した。この外部からの力が神である。これは無から有が作り出されたとする、キリスト教の伝統的な宇宙創生説と密接な関連をもつ議論でもある。

永遠の真理よりする証明には、ライプニッツらしさが現れている。永遠の真理とは常に妥当する言明のことである。つまり時空を超えて常に真なのである。そのような真理が精神の産物であることはいうまでもない。ところが永遠の真理が有限な精神に宿ることは論理的に矛盾であるから、それは永遠の精神によって生み出されると考えるほかはない。この永遠の精神が神だという議論である。

この議論に対してバートランド・ラッセルは「真理はそれを把握する精神の中にのみ存在するとは言いがたい」と反駁している。

予定調和よりする証明は、ライプニッツに独特な議論である。それはモナド論の裏返しの議論といえる。世界に無数に存在するモナドはそれ自身の中に閉ざされていて、相互になんらのかかわりを持たない。それなのに精神と身体が調和ある運動をするように、モナド相互が協働しているように見えるのは、個々の時計が相互に独立していながら一斉に同じ時刻を示すのと似ている。

時計にはあらかじめ同じ時刻をさすように設計した技師がいて、その結果互いにかかわりを持たないものが同じ時刻をさすのである。モナドにもまたそのような技師がいるに違いない。それがライプニッツの言う神なのである。だから神とはこの世界の設計者であるともいえる。

この議論は世界を目的論的に解釈するのに向いている。世界には、それが偶然によって支配されていると見るのでは説明できない事柄があまりにも多い。むしろ何らかの目的によって動かされていると考えるほうがはるかに合理的である。この目的に相当するものは、神の慈悲深い意図である。神はこの世界を作ることもできたし、作らないこともできた、それなのに一撃をもって作り出したのは、そこに深い慈悲が働いていたからなのだ、この議論はこのように展開するのが普通である。

論理学の分野においては徹底して形式主義者であったライプニッツだが、こと神の存在にかかわる議論においては、アリストテレス流の目的論者であったわけである。



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