知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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トマス・アクィナスとスコラ哲学


トマス・アクィナス (1225?-1274) は中世最大のスコラ学者であり、キリスト教神学の歴史上もっとも重要な人物である。その業績は、神の存在の証明を中核として、神学、哲学、倫理学、自然学にわたり、中世人にとっての知のあらゆる領域をカバーし、カトリック的世界観を壮大な規模で展開した。

スコラ哲学は、ルネッサンス時代に古い時代の象徴として攻撃の的とされ、一時は西洋の知的伝統から放逐されたかにも見えたが、19世紀から20世紀にかけてカトリック神学界を中心に復活を果たし、21世紀の今日においても太い流れとなって命脈を保っている。その骨格をなす部分は、トマス・アクィナスが築き上げたものなのである。

トマス・アクィナスが神の存在を証明するために持ち出した議論とは次のようなものであった。事物の中には、他のものによって動かされるだけのもの、自ら動くとともに他のものからも動かされるものとがある。動かされるものは他の何者かによって動かされるのであるが、その動かすものを限りなく遡っていくと、我々は他から動かされずに他のものを動かす何者かに行き着かねばならぬ。なぜなら、我々は無限に遡ることはできないからだ。

この他からは動かされずに他のものを動かすだけの存在、これが神なのだとトマス・アクィナスは主張したのだった。それは第一原因と言い換えることもできる。この世界が存在するようになるためには、その原因があったに違いない。それが神なのだ。神は世界の存在に先立って存在し、世界を無から作り出した。聖書もそのように教えている。

この論証の方法が、アリストテレスのものによく似ていることは、容易にわかるであろう。トマス・アクィナスは、カトリック神学の歴史の中で、アリストテレスを真に深く理解し、それを前面に押し出した最初の学者だったのである。それまでは、キリスト教神学へのギリシャ哲学の影響は、新プラトン主義的なあいまいな議論に満ちていた。トマス・アクィナスはアリストテレスに依拠することによって、神学からあいまいな部分を抜き去り、それを学問的な基礎の上に立たせようとしたのだった。

トマス・アクィナスの哲学上の議論は「反異教徒大全」の中で展開されている。これは異教徒に対してキリスト教の正当性を主張するもので、多くは神に関する議論からなっているが、その中に、人間の認識や論理に関する議論がちりばめられている。

たとえば知恵について。人は個別的な営みで智恵を発揮することがある。それはある個別的な目的を達成するために、それに必要な手段を知っているというようなことである。だが智恵そのもの、究極の智恵とは、個別的な事象を超えて、世界そのものについての全き智恵であるべきだ。

それは世界がそもそもどのようにあるのかについての、また世界がどのような目的に応じて秩序付けられているのかについての、つまり世界の真理についての智恵であると言い換えることができる。

われわれが真理を悟るというとき、それは世界の究極の目的に照らして、さまざまな事象の意味を理解するということなのである。その究極の真理が神の摂理であることは、キリスト者トマス・アクィナスにとって自明のことであった。

また人間の知性に関連して。トマス・アクィナスは普遍の認識については実在論の立場に立っていた。個別的な事象を超えた普遍的なものについて、それが単に名称に過ぎず、それ自体としては存在しないとする唯名論に対して、普遍は個別の中に実在するという立場をとった。人間の知性はその実在する普遍を、概念的な知として理解するのだ。これもまたアリストテレスの思想を踏まえたものであることは、よく見て取れるだろう。

トマス・アクィナスの思考は、あらゆる事柄において、神への言及なしでは進まない。彼の論理的思考は、神への信仰と縺れ合っているのである。

だがトマス・アクィナスは、人間の信仰のうちで、理性によって議論すべき部分と、啓示によって語られる部分とを分けていた。神の存在や魂の不死は理性によって議論されるが、三位一体や化肉といったことがらは、理性によってではなく、啓示によって始めて語られるのである。だから我々は、理性によって証明できる部分と、そうでない部分とを分けておく必要がある。

後にパスカルやカントも同じようなことを言うであろう。





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