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自由な精神と束縛された精神:ニーチェの人間類型論


あらゆる価値の転倒を実現するためには、それにふさわしい精神が必要である。それをニーチェは自由な精神と名づけ、通常の、束縛された精神に対比させた。束縛された精神とは、この世の中の価値に囚われているような精神のことをいう。それに対して自由な精神は、あらゆる価値や慣習から自由である。それは何物にも束縛されていない。何物にも束縛されていないがゆえに、それはあらゆる価値の転倒という事業を、何事もなくやってのけることができるのである。

「その素性や環境、その身分や職掌からして、または支配的な時代の見解からして、予期されているのとは別様に考えるその人は、自由精神と呼ばれる。彼は例外であり、束縛された精神は通例である、後者は自由精神を、その自由なる主義が人の目に立ちたいとの欲求に発するか、全く自由な行為に、つまり束縛された道徳と一致しがたい行為に帰着するかである、と非難する。ときとして人は、あれこれの自由なる主義の起源を頭の偏屈や非常識に求めうる、ともいう。だがそんなことをいうのは、自分のいうことを自分でも信じていないのに、そういって傷つけようとする悪意に過ぎぬ。なぜなら通常自由精神の顔には、その知性の並ならぬ優秀さや鋭さの確証がありありと書かれているので、束縛された精神でも十分に理解するほどであるから・・・自由精神の本質に属しているのは、彼がいっそう正しい見解を持つことではなく、むしろ成否を問わず、因習的なものから我が身を開放したということである。しかし彼はやはり真理を、または少なくとも真理欲求の精神を味方にするであろう。彼は根拠を求め、その他の者は信仰を求めている」(「人間的な、あまりに人間的な」池尾健一訳)

このように、自由な精神の本質とは、それが従来とは別の新しい価値を獲得したということよりも、従来の因習的なものから自分を解き放っていることにある。つまり、一切の既存の価値を転倒し、それから自由になっていることこそが自由な精神の本質的な意味なのである。それは因習にではなく、自分自身のうちに根拠を求める。それに対して束縛された精神は、自分自身のうちにではなく、慣習に根拠を求める、というよりは、根拠そのものを問題としないのだ。根拠は必要ではない。慣習に従ってさえいれば、安心していられるのである。

「束縛された精神は、自分の立場を根拠あってではなく、慣習から取り入れる。例えば彼がキリスト教徒であるのは、さまざまな宗教への洞察をもっていてその間で選択したかからではない。彼がイギリス人であるのは、自分をイギリス側に決めたからではない。そうではなく彼にはキリスト教徒とイギリス国民たることがお膳立てされていて、それらを根拠もなしに採用したのである。ちょうど葡萄酒産地に生まれた人が葡萄酒飲みになるように」(同上)

ニーチェはこの文章の後に、「根拠もないのに精神的諸原則に馴れつくことを信仰という」と続け、信仰が根拠ではなく惰性のうえに成り立っていることを暴露する。信仰もまた、慣習の一つにすぎないというわけである。人々は慣習にとらわれるのと同じような仕方で、信仰に囚われている。そうした人々にとって信仰とは心の問題ではなく、世間体の問題に過ぎないのではあるまいか、そうニーチェはいうのである。

この世間体ということこそが、慣習とか、人倫とか、宗教とかいうものの本質をなしている。世間体というのは、風習を尊重し、それに従うということである。慣習も、人倫も、宗教も、風習への服従以外の何ものでもない。ところが、自由な精神はそうした束縛から自由なのである。

自由な精神は、非倫理的であると言って非難される。既存の価値としての倫理を否定するという狭い意味では、たしかに非「倫理」的である。しかしそんな非難をまともに受け取る必要はない。その点についてニーチェは、「曙光」の中で次のように書いている。

「倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より外の何ものでもない・・・自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを望むから、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、"悪い"ということは"個人的"、"自由な"、"勝手な"、"馴れていない"、"予測がつかない"、"測りがたい"というほどのことを意味している・・・慣習とは何か? それは、我々にとって利益になるものを命令するからではなく、命令するという理由のために我々が服従する、高度の権威のことである・・・それは、個人的なもの以上の何ものかに対する恐怖である。~この恐怖の中には迷信が潜む」(「曙光」茅野良男訳)

ニーチェはここでは、「倫理」側からの非難に対して「反倫理」の立場から居直っている。倫理の立場から反倫理が悪いと言うなら、「悪い」で結構だ、というわけである。同時にニーチェは、倫理側が自分をよいと主張することには根拠がないともいっている。彼らが依拠している慣習とは、高度の権威に対する恐怖心に出ているに過ぎない。それ故、高度の権威がその権威を失えば、何も恐れることはなくなるし、慣習も意味を持たなくなる。ところが自由な精神にとっては、そうした慣習は全く意味を持たないのである。

このようにしてニーチェは、あらゆる価値を転倒させる作業を通じて、次第にそうした価値を成り立たせている前提に踏み込んでいく。それはやがて壮大な社会批判へと発展していくであろう。




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