知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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高貴な人間と卑俗な人間:ニーチェのエリート論


「悦ばしき知識」の中でニーチェがまず取り掛かるのは、「高貴な人間と卑俗な人間」との間の相違点を明らかにすることである。ニーチェはすでに「人間的な、あまりに人間的な」において「自由な精神と束縛された精神」とを比較していたのであるが、これらの二組の対立項は、似ているところとそうでないところがある。後者の対立項(自由な精神と束縛された精神)は、あらゆる価値の転倒を行うために必要な、精神的な心構えを論じたのに対して、前者の対立項(高貴な人間と卑俗な人間)は、人類の発展という高邁な目的にとって、必要な人間像を問題にしている。既存のあらゆる価値の転倒を行うという点では、自由な精神を持っていなければならないが、それにとどまらず、人類の発展と言う高邁な目的を達成するには、さらに別の資質を必要とする。それは一言で言えば高貴な人間性である、とニーチェは言うのだ。

では、その高貴な人間性とはどういうものか。ニーチェはここでも、普通の卑俗な人間たちとの対比において、高貴な人間の特徴を剔抉している。

「卑俗な本性の人間たちには、あらゆる高貴な寛仁の感情が都合の悪いもの、したがって何よりまず信ずるに足らぬものと思われる。彼らは、そうした類のことを耳にすると、眼をぱちくりさせ、こう言いたげに見える、『それには定めし何かしらうまい利徳でもあるのだろう、我々は壁を通すように何もかにもを見抜くわけにはいかないが』と。高貴な人間が抜け道で利徳をあさっているかのように、彼らは邪推する。そこに利己的な意図やぼろ儲けなど何もないことがわかりすぎるほどわかってしまうと、今度は高貴な人間は一種の馬鹿だと彼らは思う。彼らは高貴な人間の悦んでいるところを軽蔑し、その眼の輝いているのをあざ笑う・・・自己の利益をじっと見つめて放さないこと、そして目的と利益そのものを目指すこの一念が自分のうちの最強の衝動よりもさらに強力であること、それが卑俗な人間を際立たせる特徴なのだ。自分の諸衝動にまどわされて目的に沿わぬ不利な行動に誘われなどしないようにすること~これが卑俗な人間の知恵であり、その自己感情である、~なぜなら高貴で、寛仁で、犠牲的な者は、本当に自分の諸衝動に服従する、そこで其の者にとってここぞという大事な瞬間には彼の理性が休止するからだ」(「悦ばしき知識」信太正三訳、以下同じ)

つまり高貴な人間とは、あらゆる点で卑俗な人間の対極にある存在だ。卑俗な人間は目的や利益に従って行動する、高貴な人間はそうしたものを度外視して、衝動的に行動する。卑俗な人間たちは理性に従って、つまり合理的に、行動する。高貴な人間は理性にではなく、衝動に服従する、彼はその意味では非理性的あるいは反合理的な人間なのだ。また、卑俗な人間にとっては自分自身がすべてだ、しかし高貴な人間は自分自身にはこだわらない、彼は自分を犠牲にすることもいとわない。

こうしてとりあえず、高貴な人間が卑俗な人間の理解を超えた独特の存在であることが強調されるわけだ。

「高貴な人間の趣味は例外的なものに、平素は人の目を惹かず甘美なところ何一つないように見える事物に向けられている。高貴な人間は独特の価値尺度をもっている」(同上)

高貴な人間は卑俗な人間には考え及ばないような行動をする。それは彼らが独自の価値尺度を持っているからだ。その価値尺度が、卑俗な人間のそれとは百八十度正反対なものであることは、明らかだ。それ故彼らは悪人と呼ばれるのだ。何故なら、この世界は卑俗な人間たちによって占められている。その卑俗な人間たちにとって価値のあるものが善であり、それを追求する人間が善人だというわけだから、それと正反対な価値は悪であり、それを追求するに人間は悪人たらざるを得ないではないか。

しかしそうした悪人たちこそが、人類を前進させてきたのである、とニーチェはいう。彼らがいたからこそ、人類は新たな挑戦に直面するたびに、その挑戦を乗り越えてくることが出来たのだ。何故ならすべて歴史的に前例のない新たな事態は、それまでとは全く異なった発想を要求するものである。そのような発想は、高貴な人間以外にはできない。

「最も強く最も悪辣な精神の者たちが、これまで大きく人類を前進させてきた。彼らは繰り返し眠り込んだ諸情熱の火を~あらゆる秩序だった社会は情熱を眠り込ます~燃え立たしてきた。彼らは繰り返し比較や矛盾の感覚、新しいもの・冒険的なもの・未実験のものに味わう快楽の感覚を、目覚めさした・・・この新しいものは、征服を企てた古い境界石や古い恭敬心を覆そうとするものとして、どんな事態にあっても悪である。そしてただ古いものだけが善である! あらゆる時代の善人とは、古い思想の土を掘り起こし、それで収穫を上げる人間であり、精神の土百姓である」(同上)

ニーチェはここで、悪という言葉をアイロニックに使っている。悪というのは、善の立場から見たからこそ悪なのであって、悪そのものにとっては、悪でも何でもない。それが本来の自然の姿なのである。でも、この世でニーチェが呼びかけている相手はほとんど、普通の人たち、つまり卑俗な人たちであるから、高貴な人間をとりあえずは彼らの言葉で悪人と呼んで置こうというわけなのである。悪そのものを~もしそんなものがあるとして~崇拝しているわけではない。そんなわけで、ニーチャは次のような、もってまわった言い方をするのである。

「虚弱な本性の人間を破滅させる毒物は、強健な人間には強壮剤となるのだ~強者はそれを毒と呼ぶことすらしない」(同上)

以上は高貴な人間に関する消極的な定義であるが、積極的な定義も試みている。たとえば、次のようなものだ。

「相手に快感を与えたり苦痛を与えたりすることによって我々は、自分の権力を他人に行使する~それ以上のことを我々は欲していない! 我々の権力を先ずもって感じさせねばならないような人間たちに、我々は苦痛を加える。なぜなら、そのためには苦痛のほうが快楽よりも遥かに適切痛烈な手段だからだ。~苦痛はいつもその原因を尋ねる、ところが快楽はとかくそれ自身に満足して立ちどまり、後をかえりみようとしないものである」(同上)

高貴な人間は卑俗な人間に対して権力を行使する。そうすることで、自分の存在意義を確かめようというのだ。それだけではない、世界を変革するためには、人間たちを動かさねばならないが、卑俗な人間は事態を正しく理解して適切な行動をとるということが出来ない。それ故彼らには適切な行動に向けて誘導してやらねばならない。その誘導はある種強制的にならざるを得ないだろう。そこに権力が介入するわけである。高貴な人間とは権力を行使する人間でもあるわけだ。

このように、高貴な人間についての積極的な定義づけを行うのはほかでもない。高貴な人間こそが、人類の保持や発展という点で決定的な役割を果たすという了解があるからだ。人類というのは、家畜の群でないかぎりは、たえず前進しようとするものである。そしてその前進を導いていけるのは、高貴な人間だけなのである。

「人間を善意の眼差しで見ようと悪意の眼差しで見ようと、人間が全体として、特にそれぞれの個人として常に一個の宿命を担っていることを、私は見出す。つまり、人間の種族の保持に役立つことがらを果たすという使命である・・・種族の保持という点では、最も有害な人間ですら恐らく相変わらず最も有益な人間であるかもしれない。なぜならそうした者は、自分自身のもとに、もしくは影響される他人のもとに、それなしには人類がとっくに去勢されてしまうか腐敗したであろうあの本能を、保持するからである。つまり、憎悪とか、他人の不幸を楽しむ意地悪い悦びとか、略奪欲とか支配欲、そのほか悪と呼ばれるあらゆる本能、それらは種族保存の驚くべき経済の一部をなすものだ」(同上)

こうして確立された高貴な人間のイメージは、エリートと言い換えてもよい。ニーチェは、人類の教導者としてのエリートの意義を高く評価した。そかしそれは、エリートをエリート個人として評価するものではない。個人としてのエリートは殆ど問題にならない、エリートは種としての人類に役立つ限りにおいて、意義を持つことが出来る。「種族が一切であり、個人とは何ものでもない」のである。




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