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真理とは解釈されたもの:ニーチェの哲学批判


ニーチェは、すべての道徳には起源があると言って、キリスト教道徳が弱者の強者に対するルサンチマンから発生したことを見抜いたわけだが、同じようにして、すべての哲学上の真理にも起源があることを見抜いた。その起源とは人間の解釈である。真理とは人間によって都合のいいように解釈されたものに過ぎない、と言うことで、真理を完全に相対化させてしまったわけである。これは西洋の哲学史上画期的なことだったといえる。何故なら西洋哲学にとって、真理こそが永遠のテーマだったからだ。その真理が、実は人間の解釈が作り出したものだったとは!

プラトンがイデアについて語り始めて以来、西洋の哲学は一貫して真理を問題として来た。真理というのは、人間の主観的な認識が、絶対的で、客観的な存在であるイデアを捉えるということのうちに成り立つ。そのことから、真理とはそれ自身が絶対的で、究極的な存在であるとされるようにもなった。人間の認識とはこの絶対的、究極的な存在としての真理を捉えることを目標とすべきなのである。

こうした伝統的な視方に対してニーチェは、真理は客観的で絶対的な存在なのではなく、人間の主観的な解釈の産物だというわけなのだ。解釈というのは、あれこれの事柄に対して人間が下す価値評価のことである。その価値評価が人間にとって都合の良い帰結をもたらす限りにおいて、それは真理と呼ばれるのだ、とニーチェは言うのだ。

「『これこれのものはこうであると私は信ずる』という価値評価が、『真理』の本質にほかならない。価値評価のうちには保存・成長の諸条件が表現されている。すべての私たちの認識機関や感官は、保存・成長の諸条件に関してのみ発達している。理性とその諸範疇とへの、弁証法への信頼、それ故論理学の尊重は、これらのものが生にとって経験によって証明ずみの有用性をもっていることを証明するのみであって、これらのものの『真理』を証明するのではない」(「権力への意思」原佑訳、以下同じ)

ここでいっているように、価値評価の基準となるのは人間にとっての保存・成長の諸条件である。人間の保存・成長を促進するもの、それが真理の本質というわけである。そしてこの保存・成長への人間のこだわり、それは力への意思であると言い換えることが出来る。つまり、真理もまた人間の力への意思の一つのあらわれなのだ。

それ故、真理は人間の数だけ多様な形をとりうる。一人一人の人間がそれぞれの力への意思に基づいて価値評価をし、もろもろの真理をたてる。しかし様々な真理の中には、その有用性が人々によってあまねく認められているようなものがある。例えば理性とその諸範疇、弁証法への信頼、論理学の尊重がそれだ。そうしたものは、人間の生にとって経験によって証明ずみの有用性を持っているがゆえに、多くの人々によって真理として認定されるのである。

この点で、真理と信仰とは、基本的には異なったものではない。どちらも社会の多数派によって信じられていることを、その存在理由としているからだ。

信じるということは、生きる上でのひとつの前提である。というのは、人はあらゆる場合にゼロから価値評価をするわけにはいかないからである。そんなことをしていたら、なかなか前へは進めないだろう。価値評価をスムーズに行うためには、一定の前提への信仰が必要になるのである。信仰というのはだから、合理的に生きるための一つの知恵としての側面をも持っている。

「一群の信仰が現存しなければならないということ、判断が下されてよいということ、すべての本質的価値については疑問の余地がないということ、~これがすべての生あるものとその生との前提である。それゆえ、何ものかが真なりと思い込まれざるをえないということが、必然的なのであって、~何ものかが真であるということではない」(同上)

ここでニーチェがいっていることは、信仰も真理も人間にとっての必然であるが、必然であるというのは人間にとってそれ以外にやりようがないという意味であって、それが正しいとか真であるとかいう理由からではないということだ。

つまりニーチェは、真理というものをかなり功利的に捉えているわけである。真理の基準は人間の生の促進ということにある。何が人間にとって有用で、利益になるか、それが問題なのであって、人間の生と離れた真理などはありえない。真理の客観的存在性格やら永遠の妥当性について論じる哲学は無用の長物と言うべきである。そんなもので人間の生を促進することはできない。人間は霞を食って生きていけないように、真理によって生を促進することはできない、というわけである。

それなのに何故人間は、究極的なものとしての真理などという妄想にこだわってきたのか。それは人間の弱さの為である、というのがニーチェの言い分である。弱い人間たちがルサンチマンによってキリスト教道徳を作り上げたのと同様に、弱い人間たちが、自分たちが生きていきやすいように、価値評価の基準を作ったのに過ぎない。その基準を万人に通用するものとして押し付ける根拠として、永久不変の真理などという概念をでっち上げたにすぎない、そうニーチェは言うわけなのである。本当に高貴で強い人間にとっては、そんな価値評価の基準は必要ではないのだ。




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