知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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霊の三つの変転:ニーチェの思想


ツァラトゥストラの言葉のうち最初に述べられるのは「三つの変転について」と題されたものである。「わたしはお前たちのために、霊の三つの変転を述べよう。すなわち、霊が駱駝になり、駱駝が獅子になり、最後に、獅子が幼児になる次第を述べよう」(「ツァラトゥストラはかく語った」浅井真男訳、以下同じ)で始まるこの言葉は、一見して精神の成長あるいは発展について述べたものだとの印象を与える。

駱駝は重い荷物を背負うものである。それと同じように霊もまた重い荷物を背負う。その荷物とはどんなものか。ツァラトゥストラはそれを「重く困難なこと」というのみで詳しくは定義していないが、すくなくとも一種の束縛として捉えているようである。その束縛とは、「汝なすべし」という言葉で言い換えられている。

獅子は一切の束縛から解放されて自由になった状態を現している。「自由を手に入れること、義務に対しても、聖なる『否』を言うこと」、そのために獅子が必要になる。獅子にとっては、「汝なすべし」は問題とはならず、「我欲す」がすべての行動を導く原理となる。獅子はその行動原理に従って、あらゆる価値を否定する。

獅子は否定の力のシンボルだと言える。しかし否定だけでは、つまり略奪するだけでは不十分だ。否定の先に肯定がなければならない。それが幼児が必要な所以だ。「幼児は無邪気であり、忘却である。一つの新しい発端、一つのたわむれ、一つの自力で転ずる車輪、一つの第一運動、一つの聖なる『然り』の発言である」

回りくどい言い方をしているが、要するに「然り」という肯定の契機、それが幼児である。「想像のたわむれのためには、一つの聖なる『然り』の発言が必要なのだ」、というわけである。

この単純化した図式からも、駱駝―獅子―幼児が、霊すなわち人間の精神がたどるべき発展段階を述べたものだとの印象が窺える。そうした印象にもとづいて、この図式を解説した者としてレーヴィットがある。レーヴィットは、この図式を、定立(駱駝)、反定立(獅子)、総合(幼児)と言う具合に、弁証法な過程として位置づけたうえで、その発展の図式をニーチェ自身の思想の発展と関連付けて解説した。つまり、駱駝の段階はワーグナーやショーペンハウアーにかぶれていた時期、獅子の段階は既成のあらゆる価値にノーを突きつけ、その転倒を図った時期、そして幼児の段階は永遠回帰というかたちで究極の肯定にたどり着いた時期だと解釈した。それによれば、「人間的な、あまりに人間的な」が駱駝から獅子への変転を画し、「ツァラトゥストラはかく語った」が獅子から幼児への変転を画した著作だということになる。

この見方は余りにも単純化された見方であるが、非常にわかりやすくもあるので、支持する者は多い。

しかし他方では、この図式を発展として捉えるのには無理がある、とする見方もある。もしこれが発展の図式だとするならば、幼児の段階はそれ以前の駱駝や獅子の段階を包括した完全な状態を意味するはずなのに、実際にはそうなっていない。幼児は完全どころか、無邪気であり、忘却であり、一つの新しい発端に過ぎないのだ。つまり発展の見方にこだわると、発展のゴールとは別の発展のためのスタートを意味するという奇妙なことになる。もっとも、永遠回帰の思想が円環の思想であるとするならば、それもまた必ずしも不可解なことではないのかもしれないが。




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