知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ニーチェの超人


既存のあらゆる価値の転倒の先にニーチェが持ち出した新たな価値あるものとは、「超人」の理念と「永遠回帰」の思想であった。どちらも既存のヨーロッパ思想の対極にあるものだ。「超人」とは、キリスト教道徳が教える望ましい人間像とは正反対に位置する「悪人」の典型ともいうべきものであり、「永遠回帰」のほうは、キリスト教的世界観が依拠する直線的でかつ進歩的な時間概念に真っ向から対立するものであった。つまり、既存のあらゆる価値を否定したニーチェにとっては、それらの既成の価値において究極の「反価値」とされたものを、新たな価値として持ち出さざるをえなかったということだろう。

「超人」という言葉が現れるのは「ツァラトゥストラはかく語った」の序章の中である。瞑想から覚めて山を下りたツァラトゥストラが、途中で出会った聖者が「神の死」を知らなかったことに驚きつつ、麓の市場にたどり着いて最初に吐く言葉が「超人」なのである。ツァラトゥストラは、自分が山を下りて再び人間たちのところにやってきたのは、人間たちに「超人」を教えるためだといって、次のようにいうのである。

「わたしはお前たちに超人を教えよう。人間は超克さるべきものである・・・人間は、動物と超人との間に張られた一本の綱だ・・・人間において大いなるところは、彼が橋であって、目的ではないことだ」(「ツァラトゥストラはかく語った」浅井真男訳)

ここで語られていることは、人間はみずからを超克して超人となるべきであること、人間にとっては人間であることが目的にはならないこと、人間の目的は自ら超人となるか、あるいはそれができない場合には、超人の素質をもった者が超人となるための橋渡し役を務めることだ、ということである。どちらにせよ、人間というものはそのままでは価値あるものではない、価値があるのは超人のみなのだ、というエリート主義的な考え方である。

では、その「超人」とはどのような者なのか。ツァラトゥストラの口を借りてニーチェがとりあえず語ったのは、それがいまツァラトゥストラの眼の前にいる人間たちとは異なった存在だということ、そのような人間たちの正反対の存在だということ、つまり世間で人間的だとされていることとは正反対の属性を帯びている者、それが超人だというだけで、超人がどのようなものかについての積極的な定義は述べていない。

超人についてニーチェが積極的な定義を行うのは「権力への意思」と題された遺稿集の「訓育と育成」の章においてである。妹エリザベートの手によって編集されたこの本は、色々な点で問題があり、したがって超人についてニーチェが抱いていた考えを忠実にあらわしているのか疑問のところがある。というのも、ニーチェの残したテクストは断片的で体系化されておらず、したがって並べ方によっては、どうにでも解釈ができるような読み方ができるからである。それはともかくとして、エリザベートの編集を頼りにニーチェのテクストを読んでいくと、次のようなイメージが浮かび上がってくる。

「訓育と育成」の章は、「1 階序の教え、2 強者と弱者、3 高貴な人間、4 大地の主たち、5 偉大な人間、6 未来の立法者としての最高の人間」からなり、それぞれのところで、普通の人間との対比において超人の超人たる所以が述べられる。すなわち大衆に対する高級な人間、弱者に対する強者、下賤な人間に対する高貴な人間、精神世界ではなく大地の主であるような人間、卑小な人間に対する偉大な人間、過去に依拠する最低の人間に対する未来の立法者としての最高の人間、それが超人なのだと定義している。

一見してわかるとおり、こうした対立軸は「人間的な、あまりに人間的な」以来、ニーチェの思想の基本線となってきたものだ。「人間的な」においてニーチェは「自由な精神と束縛された精神」の対立をテーマにし、その後その対立は、「高貴な人間と卑俗な人間」の対立を経て、「支配者道徳と奴隷道徳」の対立へと発展していったわけだが、そうした対立軸の考えられるすべての集合の一方の側が、超人という概念のうちで結晶したのだと考えることができる。

そのように考えると、以上で述べた六つの対立軸の意味がよく見えてくる。

まず、大衆と高級な人間との対立は「階序の教え」のなかで述べられている。いまの世の中では人間の平等が強調されているが、人間は本来平等ではない。人間は不平等に作られている。したがって人間の社会にも個々の人間の能力に従った区別がもたらせられねばならない。それが階序というものである。

「位階を決定し、位階を配するのは、権力量のみである・・・大衆に対する高級な人間の宣戦布告こそ必要である!」(「権力への意思」原佑訳、以下同じ」

こうニーチェは言って、まず人間の平等性に対する幻想を打ち砕き、人間をその能力に従って序列化することの必要性を訴えるのである。

次いで、人間が強者と弱者とに分かれるのは、人間の本性がそうさせるからである。強い者は強い者を生み、弱い者は弱い者を生むように出来ている。つまり、「『強い人間と弱い人間』という概念は、強い人間の場合には多くの力が遺伝されているということに還元される~強い人間は一つの総計であるのだが、弱い人間の場合にはその遺伝がまだ足りないのである」(同上)

こうしたなかで、「高級な人間」が「畜群的人間」を抑圧するのは自然にかなったことで、「『圧制するもの』というのは偉大な人間の事実である。彼らは劣悪な者どもを愚昧ならしめる」(同上)のである。

「大地の主たち」というのは「精神世界の奴隷」との対比において言われている。精神世界とはキリスト教が教える世界のことで、要するにあの世のことを意味している。弱い人間たちはあの世での救済を信じることによってこの世の苦しみから解放されると考えることに慰みを見出しているが、実際には神はもう存在しないのであるし、したがって神が用意するとされるあの世も存在しない。存在するのはこの世、つまりあなた方が立っているこの大地のみである。大事なことは、この大地でいかにして生きていくかであり、それも弱者としてではなく強者として生きていくことである。弱者として生きることにどんな意味があるというのだ。

強者のなかでも最も強い者、それが「偉大な人間」である。「偉大な人間は、おのれの権力が民族を支配していると感じ、おのれが民族とか時代とかとしばしの間合体していると感じている」(同上) 

つまり偉大な人間こそが自分が生きている世界の支配者になるべきなのであり、弱い人間は偉大な人間に従うべきなのである。したがって「偉大な人間のうちには生の特殊な固有性~不正、虚言、搾取~が最大にある」(同上)といってもよい。

偉大な人間を中心として、強いものたちが支配階級を形成することが望ましい。そして新しい哲学者は、そんな支配階級と結びつき、彼らのためになることをすべきである。何故なら、「新しい哲学者は、支配階級と結びついて、その最高の精神化としてのみ発生することができる」(同上)からである。

以上のように述べた上で、「『人類』ではなく、超人こそ目標である!」と叫んでこの章を終えるというのが、エリザベートによる編集の結果である。

人類ではなく「超人」が目標だというのは、種としての人間ではなく、一人ひとりとしての人間こそが問題なのだという意味だろう。ひとりの偉大な超人を作るためには、人類全体が犠牲になってもかまわない、というようにも読める。実際ニーチェはこれ以前の著作においても、そのような文脈のなかで「強い人間」というものの意義を強調して来たわけであるし、「超人」がその延長上で語られてもなんら不思議はないわけである。

ニーチェが思想界に波紋を巻き起こすのは、超人をめぐるこの独特のエリート論なのである。




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