知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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プラトン哲学の諸源泉


プラトンが西洋哲学に及ぼした影響は計り知れないものがある。その説は、一部はアリストテレスによってソフィスティケートされて、その後の西洋的な知の枠組みを制約し続けてきた。それは一言では言い表せないが、現象を理解する際の概念的で論理的な方法であり、また世界の本質を理念的なものとしてとらえる態度であるといえよう。

デカルト以後も含めて西洋哲学は、一方では知識の推進力としての論理的思考、他方では世界を純粋でかつ高度な知性の対象とみなす観念論、このふたつを両輪として発展してきたといえる。プラトンはそのいづれについても、礎石を築いた哲学者なのである。

プラトンは直接的にはソクラテスの教えから出発した。彼がソクラテスから学んだことは、現象や行為から出発しながら、それらを相互に比較検討し、偶然的なものから必然的なものを、個別的なものから普遍的なものを区別し、具体的な事象を通じてその背後に変わらぬものとして存在しているものを、概念的な知として引き出す方法ないし態度であった。

だがプラトンはこのソクラテスの教えに満足するだけにはとどまらなかった。プラトンは概念的で理念的な知を単に人間の知的営みの対象とみなすにとどまらず、それに実在性を付与した。イデアは、理念的な知であるに留まらず、現象や感覚を超えた永遠の実在としての地位を与えられたのである。観念に実在性を認めるこの態度は、観念論という形をとって、その後の西洋哲学を方向付けることとなる。

プラトンがこのような哲学を築き上げるのには、生涯にわたるギリシャ哲学の伝統との格闘があった。

プラトンは紀元前427年頃に生まれたとされているから、ソクラテスが死刑判決を受けたときには28歳前後の青年であった。ソクラテスに師事したのは20歳の頃とされているので、ソクラテス晩年の弟子であったことになる。その晩年のソクラテスから、プラトンは主として弁証法的な学問態度を学んだと思われる。つまり、日常の事象から出発して、概念的な知を求めていく態度である。プラトンの初期の著作、「ゴルギアス」、「プロタゴラス」、「ラケス」などには、そうした精神的な営みが若々しく描かれている。

プラトンはアテナイの貴族階級の出で、30人僭主政治の指導者たちとは深いつながりがあったようだ。クリティアスは母の従兄弟であったし、カルミデスは叔父であったとされる。こんなことから、プラトンはアテナイの民主政治には強い反感をもっていた。彼がやがて、哲人による統治を理想の政治形態として考えるようになるのは、このような背景にもよるのである。

民主政治を嫌ったプラトンは、ソクラテスの死後遍歴の旅に出る。まず相弟子のエウクレイデスを頼ってメガラに行き、その後キュレネ、エジプト、南イタリア、シケリアと巡回した。その間、アテナイにあっては接することのできなかったさまざまな説、特にパルメニデスやピタゴラスの説に接し、それらと格闘しながら自らのイデア説に磨きをかけていった。

パルメニデスからは、あるものはあり、あらぬものはあらぬ、存在は一であり、多様は仮象であるとするその説を敷衍して、実在は永遠で無時間的なものであり、またそれに対してすべての変化は錯覚でなければならないという見解を導き出した。

ヘラクレイトスからは、感覚しうる世界には永遠のものは何も存在しない、という否定的な結論を引き出した。これとパルメニデスの説とを結びつけて、変化する仮象は実在するものではなく、したがって真の知識は感覚からはもたらされることがない、それをもたらすのは知性のみであり、しかもその対象は永遠に実在するイデアなのだという考えにたどりついた。

ピタゴラスからは、論理的、哲学的な内容というよりは、宗教的な態度を吸収したようである。つまりオルフェウス教を根底においた、不死の信仰や神秘主義といったものである。これはプラトンにそもそも備わっていたと思われるものが、ピタゴラスを通じて確固たるものに高まったとも受け取られる。プラトンは後に「洞窟の比喩」のなかで、このピタゴラス的な世界観の一端を披露することになろう。

「テアイテトス」、「ソフィステース」、「政治家」、「パルメニデス」といったプラトンの中期を代表する作品群は、ソクラテスの影響を乗り越えて、自らのイデア論を確立していく、精神のドラマだといってもよい。

晩年のプラトンはアテナイに戻って、アカデメイアという学校を開き、そこで弟子たちの教育にあたった。この時代のソクラテスはピタゴラスの影響を受けて、著しく宗教的になる。この時期を代表する作品は、「国家」や「パイドロス」である。魂の先在と輪廻、地上の美と天上の美との比較、人間的な思慮と神的な霊感との対比といったことがテーマになった。

ギリシャ哲学には、タレスに始まりデモクリトスにいたって一つのピークを迎える自然哲学の流れが一方にあったことはこれまでにも述べてきたとおりである。その流れをギリシャ哲学における科学的合理精神の流れであるとすれば、他方には、オルフェウス教の影響を受けた非合理的な精神の流れがあった。

プラトンはデモクリトスらの自然学の伝統には殆ど考慮を払っていないかのようである。その学問の態度は師匠のソクラテスのそれを受け継ぎ、弁証法を通じて概念的な知を見出していこうとする、ある意味で合理的な精神に満ちたものではあったが、とくに晩年にいたってそうであるように、その軸足は非合理的な伝統に強く傾いていたといえるのではないか。





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