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アメリカの政治的伝統:ホフスタッターのアメリカ政治史


ドナルド・トランプがアメリカにおける反知性主義の伝統をよみがえらせたことで、リチャード・ホフスタッターの「アメリカの反知性主義」と題した本に脚光が浴びた。先日、日本人の森本あんりが、ホフスタッターとは別の視点からアメリカの反知性主義を俯瞰して大きな反響を呼んだが、やはりアメリカの反知性主義論の先駆者はホフスタッターだ。そのホフスタッターは、もともとはアメリカ政治史の専門家で、「反知性主義」に先駆けて「アメリカの政治的伝統」という本を書いている。

アメリカという国は、もともとイギリスから渡ってきた人々が人工的に作り上げたもので、本格的な植民が始まってからこの本が書かれた二十世紀半ばまででも精々四百年、イギリスから独立して一人前の国家になってから二百年もたっていない。だからヨーロッパ諸国におけるような分厚い文化的伝統を持たないし、政治の領域においても、伝統を云々することが憚られるような面もある。にもかかわらず、アメリカにも政治的伝統を論じる余地はある、というのがホフスタッターの考え方だ。

アメリカはヨーロッパ社会におけるような、前近代的な社会を経験したことはなく、国家が出来たときから、明文の憲法を旗印にして、国民の人為的な統合の上になりたっていた。しかも、ヨーロッパ諸国におけるような、深刻な社会内の対立をあまり経験せず、人々が政治的な価値観をめぐって闘争するといった事態もあったとはいえなかった。南北戦争のような内乱がなかったわけではないが、それは国家を深刻に分裂させたというよりは、それを通じて国家がより高度な統合に向かったという意味で、いわば、雨降って地固まる的な役割を果たしたに過ぎない。アメリカの歴史は基本的には、アメリカ的な価値観が地理的にも、人口の上でも拡大してゆく過程として捉えることができる(原住民であるインディアンのことを度外視すればということではあるが)。

この本がカバーしているのは、そう長くもないアメリカの歴史の中から、国家として独立して以来二十世紀前半までのせいぜい百五十年ほどの政治の歴史、それも政治家、主に大統領に焦点を当てて論じたアメリカ政治の歴史である。何人かの大統領に光をあてて、そこから一定の共通した特徴を引き出せば、それでアメリカの政治の歴史はだいたい理解したことになる。そういう至極単純な明快さがこの本にはある。これは、たとえば日本の政治を論じるときにも、到底取りえない視点だ。日本の政治は政治家の言動から十全に浮かび上がってくるようなものではないし、長い歴史の上で、いわばパラダイム変換ともいえるような人々の意識の変化も介在している。政治家の言動を以て、その時代の、あるいは一定の歴史的なスパンにおけるその国の政治の歴史がわかるということにはならない。ところが、アメリカについてはそういうことが可能だ、どうもホフスタッターはそのように考えているフシがある。アメリカという国を単純な視点から見ているわけだが、それはホフスタッター自身の視点が単純すぎるのか、それともアメリカの政治そのものが単純にできているのか、それは読者がそれぞれ判断する事柄だ、というわけであろう。

ともあれ、幾人かの大統領に焦点をあて、その言動を分析することでアメリカの政治史が理解できるとするホフスタッターの姿勢は、大統領こそがアメリカの政治的な信念を典型的に体現しており、そうした政治的な信念にしたがってアメリカの政治が動いてきたのだとする認識に支えられているのだと思う。ホフスタッターは、若い頃にマルクス主義の洗礼を受けたそうだが、彼の議論はマルクス主義のいわゆる上部構造論のエッセンスを受け継いでいるのかもしれない。政治的なイデオロギーは、経済関係としての下部構造に規定されるとするマルクス主義的な社会理論は、上部構造は社会の鑑のようなものだとする認識に立っているので、上部構造としてのイデオロギーを分析すれば、そこからパラレルな形で、おのずからその社会の真の姿が浮かび上がってくるし、そうした上部構造は政治家の意識の中で典型的な形をとるものだ、と考える。こうした考え方は、アメリカのような人工的に作られた国家の場合には非常に分かりやすい形で適用されるので、政治家の意識、それも大統領のような人物の意識を分析すれば、アメリカの政治の本質がよくわかるにちがいない、という認識がホフスタッターにはあるようである。

そこで、アメリカを動かしてきた政治的イデオロギーとはどのようなものだったか、それが問題になるわけだが、それは単純化して言えば、自由と平等だった、とホフスタッターは言う。ここでいう自由と平等とはアメリカ的な自由と平等であり、大陸のそれとは多少異なることをホフスタッターは指摘する。自由というのは、個人が何者にも(国家にも)妨げられずに個人の幸福を追求する権利のことをいい、平等とは、個人の幸福を追求する権利が誰にも平等に保障されていること、つまり機会の平等のことをいう。これが、外的な束縛を逃れてアメリカにやってきた移民たちの心情を反映したものだとは容易に納得できる。つまりアメリカという国は、個人の幸福を最大限尊重するという自由主義的イデオロギーが建国のときからインプットされ、それがずっとアメリカの歴史を動かしてきた、というわけである。こうした歴史の一方向的な流れに対して、歴代の大統領は船頭のような役割を果たしていた。船頭の行動を見れば船の行方が見えてくるように、大統領の言動を見ればアメリカという大きな船の進路がよく見えてくるというわけである。

この本がカバーしている二百年たらずの間にも、アメリカ社会には階級構造の大きな変化があった。独立前後のアメリカは、独立自営農民が国の礎であった。だから建国の父祖と呼ばれた政治家たちは、こうした独立自営農民のエトスを体現していたといってよい。アメリカ的な自由と平等とは、こうした自営農民たちのエトスをイデオロギーとして表現したものなのである。ところが、十九世紀の半ばになると、産業資本家たちが大きな社会的勢力となった。南北戦争は、北部の産業資本の利益と南部の独立自営農民との葛藤と捉えることもできる。アメリカの面白いところは、産業資本と独立自営農民の対立が先鋭化しなかったことだ。それどころか独立自営農民のエトスを反映したアメリカ的な自由と平等のイデオロギーは、産業資本が優勢な時代になっても生き続けた。このアメリカ的なイデオロギーは、今でもアメリカの建前となっている。

それ故、二十世紀のアメリカの政治家たちも、独立自営農民のイデオロギーをふりかざしながら、自分の政治的な基盤である産業資本の利益を最大限ひきだすよう行動したわけである。ウィルソンやローズヴェルトといった政治家も例外ではない。彼らは産業資本の利益をあからさまに代表した共和党の凡庸な人々ほど露骨にではなかったが、やはり産業資本の利益を代表していたのであり、それを自由と平等というアメリカ的なオブラートに包むことで、多少の人間味を与えようとしたに過ぎない、というのがホフスタッターの見立てである。

この本は、F・D・ローズヴェルトのところで終わっている。書かれたのが1950年代だからいたし方がない。その後、冷戦を経て、アメリカは世界の超大国となって、アメリカ的な価値観が世界の政治に大きく影響するようになった。そのアメリカ流イデオロギーが、相変わらず自由と平等に体現されるアメリカの古くからの価値観であることは興味深い。今日では日本の保守(右翼)政権までがアメリカ流の価値観を人類普遍のものだと言ってはばからない。そうした価値観の源流を知る意味でも、この本はまだ色あせていないと言えよう。





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