知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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アメリカの金ぴか時代:ホフスタッターのアメリカ政治史


南北戦争が終了してから世紀の変わり目までの数十年間を、ホフスタッターは「アメリカの金ぴか」時代と呼んでいる。この時代には共和党の凡庸な政治家たちが合衆国大統領職に次々とついた。唯一の例外はグローヴァー・クリーヴランドで、彼は一応民主党に担がれたということになっているが、ウッドロー・ウィルソンが後に主張したように、全然民主党的ではなく、「保守的共和党員」と言ってよかった。要するにこの時代は、共和党がアメリカの政治を牛耳っていたわけである。

クリーヴランドの政治的な信条は、自由放任主義であって、それは「一つの重要な仮説、物事は政府の介入なしに順調に動いてゆくに違いないという仮説の上に成り立っていた」(泉昌一訳)。こうした政治哲学は、クリーヴランドに限らず、この時代のアメリカの政治家たちの殆どが共有していた信念であった。この信念によれば、人々は「自分の為になることならどんなことでもしてよい正当な権利がある」のであって、アメリカの政治家たちの役割は、そうした権利を最大限に実現させてやることだった。そのために必要なことは、自由放任、つまり政治は何もしないで国民に自由気ままな行動を保証してやることだったわけである。

政治家たちは、国家や国民のためには何もしなかったが、自分の懐を肥やすことには熱心だった、とホフスタッターはいう。この時代ほど、公職が私益と露骨に結びついた時代はなかった。政治の世界を動かしているのは、金であった。そんな風潮を批判してホフスタッターは次のように言う。「ブライス卿は、アメリカ政治の推進力は、『官職、利得の手段としての官職に対する欲求』であることを発見した。猟官者たちは政治権力を、富に与る手段として、かれらはかれらなりに些かながら産業キャプテンたちのように富裕になる手段と見做したのである。そうした動機がこれほど強かった時代、その誘惑がこれほど充ちていた時代はなかった」(同上)

ともあれこの時代は、アメリカの産業資本が爆発的な拡大を見せた時代である。ロックフェラーに象徴されるアメリカの産業資本家は、この時代に貧民から身を起こして一代で巨万の財を築いた。彼らはそれを社会に還元するという殊勝な考えも抱かずに、いわば独り占めすることができた。それは今日の視点から見れば利己的な行為であり、誰も褒めてくれないばかりか、時によっては反社会的な行為だと見られかねないが、金ぴか時代のアメリカでは、それを否定的に見るものはいなかった。人々が自分の個人的な利益のために行動するのは人間の本性に根ざした行いなのであり、神もそれを嘉したまう、という信念が人々を捉えていたからである。

産業資本家が我が世を謳歌する一方で、建国以来アメリカの土台を支えてきた自営農民たちは、デフレにともなう農産物価格の下落に苦しみ、没落するものが絶えなかった。また、労働者階級は、団結することが出来ずに、産業資本によって搾り取られるばかりだった。だがそうした矛盾について、この時代のアメリカの大統領たちは、まったく気を使うことがなかった。弱肉強食は自然界の法則なのであって、強いものが弱い者を搾取するのは、これも神の嘉し給うところなのだ。ハーバート・スペンサーの社会進化論がそうした考えに拠り所を与えた。アメリカほどスペンサーがもてはやされた国はなかったのである。

産業資本の横暴に始めて立ち向かった大統領として、ホフスタッターはセオドア・ローズヴェルトをあげている。ローズヴェルトは産業資本がますます巨大化し、アメリカの経済を独占的に支配するようになる傾向に待ったをかけた最初の大統領だとホフスタッターは言う。ローズヴェルトは産業資本の独占的な権力を牽制するために、トラストに対して抑圧的な姿勢で臨んだが、大産業資本そのものを解体する意図は持たなかったと言う。彼は、大産業資本が巨大化することで、政府の権力が脅かされることを危惧したのであって、別に労働者や小規模農民の利益を守ろうというわけではなかった。実際ローズヴェルトは、組織労働者や農民に対して恐怖感のようなものを感じる一方、産業・金融資本の代表者たちの意見には耳を傾けた、とホフスタッターは言っている。彼は「民衆に向かっては改革者であると信じ込ませ、実業家に対しては健全な政策の持ち主であると信じ込ませた」のである。

ローズヴェルトにとって「反トラスト的行動は、政府がビッグビジネスをこらしめるのを見たいという民衆の要求を満足させる手段としての意味もあったが、主として政府による規制をビジネスに受容させるための嚇しであったように思われる。トラスト問題に対するかれの解決は、破壊ではなく規制であった。心理的には、かれは自己を国家の権威と同一視し、『支配者』たらんとの脅迫的内面的欲求を嫉妬まじりにトラスト問題に投射したのだ。トラストは決して国家より強大になることを許されない。国家の優越的な道徳的力に服従しなければならないのであった」(同上)。こういうことでホフスタッターは、セオドア・ローズヴェルトを、自由放任的な政治から国家による規制を旨とする政治への移行を象徴するような人物として描いているように見える。

面白いのは、ローズヴェルトが自分の政治的信条として、自由と独立というジェファーソン的な信念に拘っていたことだ。この信念は、アメリカの建国を支えた独立自営農民のエートスとして生まれてきたものだったわけだが、独立自営農民が没落し、大産業資本がアメリカを支配するようになっても、依然としてアメリカ政治を動かす上での建前となっていたわけである。だが、自分自身が独立自営農民のエートスに理解がなければ、こうした信念も空念仏に終わる恐れが強い。ローズヴェルトの場合には、自分を建国当時の独立自営農民と一体視することで、現実と信念とのギャップを埋めていたものと見える。その点では、20世紀後半のレーガンにも同じことが起ったわけだが、レーガンの場合には、アメリカ的エートスを支える実体がまったく残っていないところで、あたかもそれがまだ残っているようなふりをしなければならなかった。その当時テレビで話題となっていた「大草原の小さな家」は、そうした幻想をイメージとしてばら撒くについて大いに貢献したものだ。





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