知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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アーレントとマルクスの労働観


アーレントの政治思想の基礎付けともいうべき「人間の条件」についての考察を、彼女はマルクスとの鋭い対立を意識しながら展開している。マルクスの人間観の基礎には、労働を人間の本質とみなす考え方があったわけだが、彼女はその考え方を正面から否定して、労働は人間の本質どころか、人間の諸活動のうちもっとも程度の低い活動なのであり、したがって自由な人間ではなく、奴隷が従事するのに相応しいと断言したのである。

マルクスは労働を人間の「類的本質」といった。「類的本質」とは、人間を類的存在としての人間たらしめている最も本質的な要素である。人間は自然界に対して労働を通じて働きかけることによって、自然の中に人間的な世界を作り上げていく。また人間は共同的な労働過程を通じて人間仲間と強い連帯を結び、そのことによって、社会的な動物として自分たちを作り上げていく。どの側面においても、労働は人間を人間たらしめる最も本質的な要素である。その意味では、神ではなく労働が人間を作ったともいえる。

こうしたマルクスの考え方が、アーレントには気に入らないのである。彼女は、そうしたマルクスの考え方を、「神ではなく労働こそ人間を作ったとか、理性ではなく労働こそ人間を他の動物から区別するというようなマルクスの冒涜的な観念」(「人間の条件」志水速雄訳、以下同じ)といって、厳しく排斥する。そうしたマルクスの考え方が、人間の本質についての伝統的な考え方を転倒させ、そのことによって、人間の本質をめぐる議論を混乱に陥れているというのである。

人間の本質をめぐる伝統的な議論の源流を、アーレントはギリシャのポリス社会に求める。ポリス社会のギリシャ人にとって、自由な人間とは言論を通じて互いに高めあうことを目的としていた。したがって、労働や仕事といった肉体的な活動よりも言論などの精神的な活動が重視され、言論を含めた広義の活動よりも観照的な生活が重視された。人間が、言論や観照的な生活をするためには、労働の責苦から自由でなければならない。責苦としての労働は奴隷にやらせ、労働から自由になった人々は精神的な活動や観照的な生活に耽るべきである。それがポリス社会のギリシャ人たちの基本的な考え方であった。すなわち彼らは、人間を、マルクスの言うような<労働する動物>ではなく、<考える動物>、理性的な存在としていたわけである。

ところが、近代社会ではこうした伝統的な観念がしりぞき、それとは正反対の考え方が主流となった。

「近代は伝統をすっかり転倒させた。すなわち、近代は、活動と観照の伝統的順位ばかりか、<活動的生活>内部の伝統的ヒエラルキーさえ転倒させ、あらゆる価値の源泉として労働を賛美し、かつては<理性的動物>が占めていた地位に<労働する動物>をひきあげたのである」(同上)

つまり近代社会での人間は、<考える動物>ではなく、<労働する動物>に成り下がり、理性の働きではなく肉体の動きこそが人間の本質であると認識されるようになった。そしてそうなったことの責任の一端は、マルクスにもある、とアーレントはいうわけなのである。

こういう議論を前にすると、筆者などは強い違和感を覚える。まず、労働を奴隷にさせるべき下劣な活動とする見方が異常である。アーレントが生きていた時代にあってさえ、欧米社会には奴隷など存在してはいなかった。そんな時代にあって、労働と奴隷とを結びつける議論に、いったいどんな意味があるのかわからないし、また、マルクスの労働観についての彼女の批判も偏ったものだといわざるを得ない。

アーレントは、人間の活動を分類して、労働と仕事とをことさらに区別した。そして労働は、生命の再生産のために必要な消費を目的になされる活動と定義し、仕事のほうは、人間世界を成り立たせているさまざまなものを生産する活動と定義づけたうえで、労働は、なされた後に何も残さない、消費されることだけを目的とした活動だとまでいっている。

「労働が生産するものは、すべて、人間の生命過程の中でほとんど即座に消費されるためのものであり、この消費は、生命過程を生産しつつ、肉体をさらに維持するのに必要な「労働力」を生産―むしろ再生産―する」(同上)

しかしマルクスは、かならずしもこういう意味で、労働を捉えているわけではない。マルクスのいう労働とは、自然への働きかけとしての技術的な過程と、協働や分業といった人間相互の組織的な過程から成り立っている。そして技術的過程のうちには、生産手段の生産などアーレントが労働ではなく仕事に分類したものも含まれており、組織的過程のうちには精神的労働が含まれている。つまり、労働とは人間のあらゆる活動領域を含んでいるのである。それをあたかも、マルクスの言う労働とアーレントの言う労働とが同義概念であるかのようにいうのは、マルクスの曲解というべきであろう。

マルクスは、人間の類的本質としての労働という概念を、ヘーゲルから学んだ。ヘーゲルも、自由人と奴隷の間の対立との関連において労働を分析し、労働こそが人間の類的本質の重大な要素だと気づいた。しかし、ヘーゲルは、労働に従事しないという点で、自由人のほうが労働から疎外されており、人間の類的本質からも疎外されていると考えたのに対して、マルクスは、労働者のほうこそが人間の類的本質から疎外されていると考えたわけである。

マルクスにとって、労働は本来人間の類的本質なのにもかかわらず、資本に従属することで、その本質から疎外されている。したがって、疎外から開放されるためには、資本への従属からの開放が必要だといったわけで、労働そのものから開放されるべきだといったわけではない。ところがアーレントは、マルクスがあたかも労働そのものからの人間の解放を主張したかのような言い方をしている。

「人間を<労働する動物>と定義づけておきながら、次いで、労働というマルクスによれば最も人間的で最大の力をもはや必要としない社会に、ほかならぬ<労働する動物>である人間を導いているということである。つまり私たちは、生産的な奴隷常態か非生産的な自由化という、どちらかといえば悲惨な二者択一に迫られているのである」(同上)

アーレントの言うとおり、マルクスが労働そのものからの人間の解放を叫んだのだとしたら、その結果、人間は類的本質からも開放されて、実体のない抽象的な存在になってしまうだろう。

しかしマルクスは決してそんなことを言ったわけではない。マルクスにとって労働とは、たんなる責苦なのではなく、自己実現の条件でもあり、人間の類的本質の実現にとってなくてはならない条件なのである。

こうしてみると、労働についての、マルクスとアーレントの考え方の違いには、決定的な相違がある。しかもアーレントは、マルクスの言う労働について、かなりな誤解をしているといわねばならない。彼女は言う。

「<労働する動物>は、自分の肉体の私事の中に閉じ込められ、だれとも共有できないし、だれとも完全に伝達できない欲求を実現しようともがいている。そうである以上、彼は、世界から逃亡しているのではなく、世界から追放されているのである」(同上)

だが、マルクスにとっては、労働は世界からの追放などではなく、世界へのコミットメントそのものなのである。




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