知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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アーレントの世界疎外論


「世界疎外」の概念は、アーレントの近代社会批判のキーワードだが、彼女はそれを、マルクスを意識しながら展開した。しかし、同じく「疎外」という言葉を使っていても、そのニュアンスはだいぶ違う。マルクスの場合には、人間が自分のあるべき姿(類的本質)から逸脱している事態をさして「自己疎外」と言っているのに対して、アーレントは、人間が自分の居場所であるところの「世界」から追放されている事態を「世界疎外」と言っている。そしてこの「世界疎外」という事態は、近代に特有の事態だとして、次のように言う。

「マルクスの考えた自己疎外ではなく、世界疎外こそ、近代の品質証明なのである」(「人間の条件」志水速雄訳、以下同じ)

なぜ「世界疎外」が問題になるのか。それに答えるにはまず、「世界」という言葉で、アーレントが何を考えていたかについて、整理しておく必要がある。アーレントは、人間の活動領域を公的領域と私的領域に分け、両者を截然と区別した。その上で、私的領域を、人間の動物的な生存に関わるものとする一方、公的領域を、人間の人間らしい活動の舞台となる場所だと考えた。そしてその舞台のことをアーレントは、「世界」と呼んだわけである。

だから、その「世界」から疎外されるということは、人間が人間らしく生きるための基盤を失うということを意味する。マルクスの「自己疎外」が、人間がストレートに人間らしさを失う事態をさしているのに対して、アーレントの「世界疎外」は、人間が「世界」に居場所を求めることができなくなる結果、人間らしく生きる手がかりを失うという事態をさしているわけである。

公的領域たる「世界」においては、人間は、一人一人がそれぞれ自立した自由な個人として尊重されるという点で、人間の多数性(多様性)というものが許容されていた。これら多数の(多様な)人間は、それぞれ自由な言論を通じて互いに説得しあい、そこから共通のルールを作り上げることで、望ましい共同社会を形成していた。一方、私的領域たる家族においては、家族の成員の生命の維持と家族の再生産(生殖を含めて)が目的となる。公的領域においては言論などの精神的な活動が中心になるのに対して、私的領域では労働が家族を支える。両者はそれぞれ依存しあう関係にあるが、しかも混同されることなく、截然と区別されなければならない。それでこそ、人間は公的領域において自由な個人として振舞う一方、私的領域たる家族の場において、精神的な安らぎを得ることができる。

このような、世界と家族の関係が、近代社会においては破壊されてしまった、というのがアーレントの危機意識の内実なのである。公的領域たる世界が破壊された結果、人間は自由な個人として振舞うことができなくなり、多様な人間というものも意味を失う。人間はもはや、多様でかけがいのない個人ではなく、大勢の人間たちの一人に過ぎなくなる。一方、家族ももはや、安らぎの場所ではなくなってしまった。なぜなら、世界が失われたことで、家族自体が世界の中での居場所を失ってしまったからだ。

このような世界と家族の解体を加速させた要因について、アーレントは資本による土地の囲い込みをあげている。囲い込みの結果、農民たちは土地と家を奪われ、生きていくよりどころを失う一方、自由な個人からなる公的領域たる世界もそれを構成する基盤を失うというわけである。その辺をアーレントは、「世界と人間の世界性そのものを犠牲にする場合に、はじめて富の蓄積過程が可能になる」といって、マルクスの「資本の本源的蓄積」論を思わせるような議論をしているが、それをあまり深く追求することはしなかった。

ともあれ、世界と家族が解体したあとに現れるのは社会である。あるいは、社会の肥大化にともない、世界と家族とが縮小し、ついには消滅したと言い換えてもよい。社会は、世界のように自由で多様な諸個人からなるのではなく、個性をもたない画一的な人間たちからなる。また、安らぎの場所としての家族の機能が失われた結果、ひとびとは直接社会の構成員として行動する。この場合の社会の構成員とは、それぞれがばらばらで孤独な個人からなる大衆のことを意味する。大衆は、自分の意見を持った個人からなるわけではなく、その点で、操作されやすいという性質を持っている。そこから、全体主義の危険が生じてくる、というのが、アーレントの基本的な見取り図である。それを彼女は、次のように簡潔に言い表している。

「社会が勃興したために、同時に、公的領域と私的領域が衰退した。公的な共通世界が消滅したことは、孤独な大衆人を形成するうえで決定的な要素となり、近代のイデオロギー的大衆運動の無世界的メンタリティを形成するという危険な役割を果たした」(同上)

このように、アーレントの「世界疎外」論は、大衆社会とその帰結としての全体主義をめぐる議論と密接な関連をもっている。だから世界疎外とは、人間の未来にとって非常に問題をはらんだ事態なのだ。その点、疎外といっても人間の「自己疎外」を問題にしたマルクスとは、かなりベクトルが違う方向を向いている。マルクスの場合には、「自己疎外」は、人間が陥っている状況をさすとともに、克服すべきものとしても意識されているし、実際克服できるものとイメージされている。そして、克服が成功した後には、人間は失われた本来の「人間性」を取り戻すことができるだろう、という楽観的な展望があった。

これに対してアーレントの「世界疎外」は、世界からの疎外ではなく、世界そのものを失うことを意味している。疎外には、それからの回復と言うイメージが結びつきうるが、喪失には、取り戻しのつかない不可逆的な過程というイメージが結びつく。世界疎外の行き着く先は、どうしても暗いものにならざるを得ない。

こんなわけで、マルクスの見取り図と比べると、アーレントの展望した見取り図は、かなり悲観的である。




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