知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ハンナ・アーレントの革命論


革命は、少なくとも西洋文明にとっては、近代化の巨大な推進力だという理解が支配的だが、ハンナ・アーレントはその理解に対して異議を唱えた少数者の一人である。彼女は、「革命について」と題する書物の中で、革命を戦争と並列させ、この両者は暴力を「公分母」としていると書いている。つまり、両者とも、その本質は暴力にあり、したがって基本的には、なくて済ますべきものだと考えるわけである。彼女の革命に対する忌避感情は、とりわけフランス革命について極端に現れている。彼女にしたがえば、フランス革命は、人間性という言葉を使いながら、人間性に悖るものだったのであり、したがって、人間の歴史にとってプラスの側面よりも、マイナスの側面の方が大きかったのだと断定するのである。

アーレントがフランス革命を忌避するようになった理由は、おそらくロシア革命への幻滅にあるのだろう。レーニンが主導したロシア革命はマルクスの革命観に鼓舞されたものだったが、マルクスはその革命観をフランス革命の分析から導き出した。しかしてフランス革命は、ルソーの政治思想に鼓舞されていた。ロシア革命は、ルソーの思想に遠い淵源を持ち、フランス革命を経て試行され、マルクスによって理論化された革命についての理念という、一筋の流れの上に立っていたわけである。だが、その革命の結果現れた事態はどういうものだったか。それはアーレントの理解によれば、自由の抑圧という点で、ナチスドイツと変わらぬ全体主義的な体制であった。スターリンによって貫徹された全体主義体制のもので、大勢の人間が撲滅されていった。その撲滅振りは、ナチスによるホロコーストと選ぶところがない。ナチスによってひどい目にあわされたアーレントにとっては、ロシア革命もナチスの政権掌握と五十歩百歩のものとして映り、そのロシア革命の先駆者たるフランス革命も、彼女の目には忌々しいものとして映ったのだろう。

その一方でアーレントは、アメリカ革命については、甘い評価を与えている。アメリカの革命も、革命であった限りでは、マイナスの側面のほうが強いのだが、しかし、フランス革命に比べればましだったというわけである。その最大の理由は、アメリカの革命では、フランス革命ほど暴力がむき出しにならなかったことだ。無論イギリスを相手にした戦争という意味合いで暴力が用いられなかったわけではなかったが、フランス革命のように、自国人に対して暴力が振るわれるということはなかった。また、革命の結果生み出されたものも、フランス革命の場合がジャコバンの独裁だったのに対して、アメリカの場合には、政治の民主化だった。フランス革命は政治的には抑圧をもたらしたのに対して、アメリカ革命は政治的自由の拡大をもたらした。そうアーレントは考えるのである。

フランス革命が人間性の抑圧に終わった理由は二つある、とアーレントはいう。ひとつは歴史の必然性についての無反省な思い込みであり、もうひとつは社会問題の解決という要請が自己目的化したことである。こう考える背景には、彼女が革命を、まず政治的な事件として(あるべきだと)捉えていることがあげられよう。

この議論を展開する前に、アーレントは言葉の分析から始める。革命をあらわすレヴォリューションという言葉は、もともと回転とか回帰とかいう意味を持っていた。だからそれは、今日理解されているように、まったく新しいことを始めるという意味ではなく、元の状態に回帰するという意味合いの言葉であった。歴史は同じことの繰り返しに他ならない。地の下に何も新しいことは起こらない、そう古代人たちは信じていたのである。そのレヴォリューションが、今日的な意味での革命に転化するのは、そこに必然性という要素が加わった結果である。人々がいったん革命を始めると、それは押さえの利かないすさまじい威力を発揮する、その抑えがたい力を、人々は歴史の必然という言葉で説明した。こうして、革命というものは、歴史の必然性が自己実現していく過程なのだという確信が革命の遂行者たちによって共有され、革命は非人間化される。その非人間化のプロセスから、おぞましい人間性の抑圧がもたらされる、そうアーレントは考えたのである。

社会問題の解決とは、別の言葉でいいかえれば、貧民の救済ということである。フランス革命では、初めは第三階級の政治参加がスローガンとなったが、革命の進行とともに、次第に貧民階級の救済が最大の目的に掲げられるようになった。貧民をなくすことこそが、人間性の解放にとって、最低限の条件となる。そのためには、富めるものを抑圧し、その財産を貧民に分け与えることで、格差の解消を図らねばならない。こうして、初めは政治的な動機で始まった革命が、社会問題の解決を究極の目的とするようになる。そうなれば、革命には節目というものがなくなる。なぜなら、政治的テーマには一定の目標があり、したがってそれが解決された時点で、一定の節目が達成されたということができるが、社会問題というのは、一定の期限内に解決可能というものではない。それは、永久の課題とならざるを得ないし、社会全体を巻き込んだ、壮大な実験とならざるを得ない。

こうした社会問題というのは、フランス革命以前には、誰にも意識されなかったものである、とアーレンとはいう。フランス革命以前に生きていた人々にとっては、人間の間に格差があるのは自然なことであり、したがって、それを解消しようなどとは、神の摂理に反する冒涜的な考え方だと受け取られていた。その冒涜的な考え方から、支離滅裂な騒ぎが持ち上がり、人間性が広範な領域で蹂躙される事態が生じた。この社会問題という亡霊が、革命を血なまぐさいものとした最大の要因なのである、とアーレントは考えるのだ。

アメリカ革命に、暴力的な血なまぐささがあまり感じられないのは、当時のアメリカには、社会問題というものが存在しなかったからだとアーレントは言う。アメリカには、ヨーロッパにおけるような絶対的貧困は見られなかったし、また、人々の間の経済的格差も大きくはかった。そうした社会であったからこそ、革命の目的は政治的な問題領域に絞られ、その目的が一応達成された時点で、革命も終了となった。そこが、社会問題に引きずられて、だらだらと革命が長引いたフランスの場合との大きな違いである。

アメリカ革命にはまた、歴史の必然といった観念も存在しなかった。アメリカ革命の当事者たちにとっては、イギリスの不法な支配から自由になることと、自分たち自身による政治参加を実現することが当面の目的であった。つまり、彼らの目的は徹頭徹尾政治的なものだったわけである。そこがフランス革命との決定的な違いであった。彼らは、自分たちの目的として、民主的な政治参加と、権力からの自由をとりあげ、それらが実現された時点で、革命の役割は終わったとすることができたのである。

アーレントがこのように言って、アメリカ革命を一定程度評価するのは、彼女が、革命の意義を人間の自由の拡大という点において認めているからである。革命は、マルクスの言うように、歴史的必然性がしからしめるものでもなく、また、社会問題を解決するためのものでもない。それは、政治権力をめぐる闘争のひとつの形態(もっとも決定的ではあるが)なのであり、めざすところは自由の拡大という点にある。人間の自由の拡大に繋がらない革命は、革命の名に値しない。アメリカは、政治参加の拡大と自由の尊重をもたらした限りで、積極的な意義を持ちえた。それに対してフランス革命は、暴力による人間性の蹂躙、すなわち自由の抑圧をもたらした点で、否定的な意義のほうがはるかに強い、そうアーレントは考えるのだ。

アーレントがこう考えることの背景には、彼女が社会問題について、あまり重要視していないことが、事情として働いていたのだろう。エンゲルスやマルクスにとって、彼らが生きていたヨーロッパには、深刻な社会問題が存在していた。それに対して、彼らは道徳的な次元で反応した。そうした道徳的な要素が、彼らを革命へ駆り立てたという事情があった。これに対してアーレントは、社会問題などというものは、人間社会にとって自然な現象なのであり、それを、暴力を通じて解決するなどということはすべきでない、というふうに考えていた。そのすべきでないことをしようとしたところに、フランス革命が無理な企てに陥らざるを得ない理由があった。そうアーレントは考えるわけなのである。

ともあれ、フランス革命については、アーレント以前にも、否定的に評価する見方はあった。しかしそれらのほとんどは、フランス革命の諸々の断面について、断片的な嫌悪感を表明するに過ぎなかった。それに対してアーレントは、フランス革命をトータルに否定した。彼女は、フランス革命を、全面的かつ体系的に否定した最初の政治思想家だったといえるのではないか。




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