知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板


福沢諭吉の修業時代


福翁自伝には、福沢諭吉の修業時代の様子が実に生き生きと描かれている。これを読むと、星雲の志というものがいかなるものか、また、人間というものは、志に鼓舞されてどこまで進むことができるか、大いに考えさせてくれる。

福沢諭吉の父は豊後中津藩の下級武士であったが、長く大阪の蔵屋敷に勤番していたので、諭吉も大阪に生まれた。その父親が諭吉の三歳(満年齢では2歳)の時に亡くなったため、母親は五人の子どもを連れて中津に戻った。諭吉は末子であった。長兄はその時十一歳、その下に3人の姉がいた。

こんなわけで、諭吉は中津で基礎教育を受けた。基礎教育と言っても。いまの子どものように6,7歳の頃から体系的な教育を受けるわけではない。手習いもしなければ本を読むでもない。母親は家の世話で手一杯であるから、子どもに教育を授けるという余裕はない。諭吉はいわば放りっぱなしのような状態で、のんびりと子ども時代を過ごしたようである。

諭吉が本を読むようになるのは、十四、五歳の頃からだ。田舎の塾にいくつか通って漢籍の素読を受けた。諭吉は非常に物わかりのよい生徒だったようで、熟の先生よりも漢籍の意味を良く理解したと自慢している。

師事した先生の中でもっとも記憶に残っているのは白石という人だったと諭吉はいい、その人の塾の様子を、次のように書いている。

「白石の塾にいて漢書は如何なるものを読んだかと申すと、経書を専らにして論語孟子は勿論、すべて経義の研究を勤め、殊に先生が好きとみえて詩経に書経というものは本当に講義をして貰って善く読みました。ソレカラ、蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子というようなものも善く講義を聞き、その先は私ひとりの勉強、歴史は史記を始め、前後漢書、晋書、五代史、元明史略というようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻でしまうのを、私は全部通読・・・」

これらの書物はみな、学問好きだった父親が残しておいてくれたものだった。

一方、信心のほうは甚だ薄かったようである。世間の人がお稲荷様を崇拝する様子を見て、お稲荷様の本尊をガラクタと取り換えたことがあった。そうすれば何か罰があたるかとも思ったが、別に何事もなかった。そんなところから諭吉は、神や仏というものを信じなくなった。それには母親の影響もあったようで、諭吉の母親は、真宗の門徒であるにかかわらず、「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むことばかりは、可笑しくてキマリが悪くてできぬ」と日頃言っていたようである。

諭吉の修行にとって大きな転機となったのは長崎遊学である。諭吉が19歳の時、長兄が藩用で長崎に出張することになったが、その折にお前も連れて行ってやろうと言われて、喜んでついていったのである。諭吉は中津藩の狭い世界にうんざりしていた。そのうちにこんな所とはおさらばして広い世間に乗り出したい、と常々考えていた諭吉にとって、長崎行きの話は渡りに船だったわけである。

長崎に着くと諭吉は、家老の世話で山本という砲術家の食客となって、砲術の勉強を始めた。何事にも覚えのよい諭吉は瞬く間に砲術の極意にせまり、諸藩から情報を求めて集まってくるものたちを相手に、砲術の講釈などをした。

ところが、諭吉と不和になった家老が陰謀をはりめぐらし、諭吉は中津へ連れ戻されそうになる。日頃中津など糞食らえと思っていた諭吉は、自分なりに謀を巡らし、江戸へ向けて逐電した。江戸で蘭学でも勉強しようと思いついたようなのである。

しかし諭吉は江戸へまではいかず、途中の大阪に腰を落ち着けた。大阪の有名な蘭学塾である緒方洪庵のもとで勉強するつもりになったのである。さいわい大阪には長兄も来ている。また蔵屋敷の中には自分が生まれたときのことをよく知っている人たちもいて、諭吉はそれなりに心を落ち着けることができた。家老の意に反して逐電したにも関わらず、諭吉は藩の蔵屋敷に暖かく迎えられ、そこから緒方の塾に通うことができたわけである。諭吉20歳のことである。

そのうち諭吉は、兄の死やなにやとごたごたがあった挙句、大阪の蔵屋敷に居づらくなったようで、緒方の好意で塾に住みこむようになる。この塾はそんなに広くはなかったと思われるが、結構多くの書生が住み込んでいたようである。諭吉はそのうち塾長になり、なにかと熟の世話をするようになる。こんなことから諭吉は、緒方夫妻の信頼を得て親子のような関係になり、生涯親しく行き来するようになった。

緒方の塾は適塾といったが、その塾での生活ぶりが、福翁自伝のなかで生き生きと描かれている。熟は男ばかりの世帯であるから、整理整頓ということとは無縁だ。ごった返したなかで、夏などは暑くてたまらぬものだから、塾生たちは褌もしめずに真っ裸で過ごす。それでも飯を食う時ばかりは、羽織をひっかけたりもしたが、行儀作法のことまでは世話がまわらず、みな茶碗を持って立ったまま飯を食ったという。

塾生たちは、よく勉強したが、その傍ら遊ぶときには羽目を外して遊んだ。その遊びの様子が、自伝の中で面白おかしく描かれている。諭吉は一升酒を平気で飲むほどの酒好きであったが、それは子どもの頃からのことであった。つまり体質的に酒が大好きときているのである。そんなわけで酒には目がなかった。小銭ができると酒を買って飲み、多少のゆとりがあると朋輩たちとともに酒亭へ出っ張って酒を飲んで騒いだ。

塾生たちにはいいアルバイトがあって、それで以て塾の費用を支払ってもおつりが出る。そのおつりで本を買ったり、酒を飲んだりしたわけだが、そのアルバイトというのが、洋書の写本であった。その様子を諭吉は次のように書いている。

「白米一石が三分二朱、酒が一升百六十四文から二百文で、書生在塾の入費は一か月一分二朱から一分三朱あれば足る。一分二朱はその時の相場でおよそ二貫四百文であるから、一日が百文より安い。然るにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余るほどあるので、およそ尋常一様の写本をして塾にいられるなどということは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった」

塾生の中で、福沢がなんども言及しているのは村田蔵六(大村益次郎)だ。大分仲良くしていたようだが、福沢と村田とでは、生き方が大分違った。福沢は攘夷を叫ぶ輩が大嫌いだったが、村田は攘夷の急先鋒になった。また、福沢はいち早く蘭学から英学へ切り替えたが、村田は蘭学さえ知っておれば、西洋のことは何でも分かると言って、英語を学ぼうとしなかった。

23歳の時、諭吉は中津藩から江戸へ下るようにと命じられた。藩が江戸屋敷に創設した蘭学塾に、福沢を講師として招こうというものであった。そこで福沢はいったん故郷の中津に戻って、母に暇乞いをした。母は長兄の残した娘を引き取って、ひっそりと暮らしていたのであった。

適塾の同僚二人をともなって江戸へ着いた福沢は、鉄砲図の邸に住まいして、やってくる藩士たちに蘭学を授けた。そのうち世の中がだんだん騒がしくなって、横浜には外国人のための居留地もできる。ある日そこへ出かけたところが、日頃自信のあるオランダ語が一向に通じない。ショックを受けた福沢は、これからは英語の時代だと思うに至り、英語の勉強に精を注ぐようになる。しかし、英語を教えてくれるものがない。そこで蕃書調所に通って、英語の本を、オランダ語の英語辞典を引きながら独学で勉強した。

こうして、修行を重ねるうちにも、修行の仕上げというべき時がやってくる。咸臨丸に乗ってアメリカにわたり、そこで英語を本格的にマスターする一方、最新の書物にも接して世界の情勢を把握するに至るのだ。このアメリカ行きはだから、国際人福沢諭吉の誕生の一瞬であった。




HOME政治的省察福沢諭吉論次へ






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2013
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである