知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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マイク・サンデルの正義論


マイク・サンデルといえば、一時期日本でも大流行したから、筆者も名前だけは知っていた。サンデルが流行した当時は、同じく政治思想家のジョン・ロールズも、サンデルとセットのようにして流行した。ロールズは、アメリカのリベラルの考え方を哲学的に基礎づけたと言われており、現代思想の流れの中ではそれなりの位置を占めていた。サンデルは、そのロールズの思想を高く評価しながら、その限界を指摘し、リベラルな政治思想に共同体的な要素を持ち込もうとした、というのが大方の批評だったように思う。

サンデルが大人気になったのは、思想の新しさもさることながら、議論を展開していく独特の方法にも理由があったようだ。彼の議論は、学生を相手に想定したわかりやすいもので、具体的な事例を材料にして、問題をとことん追求しようとするものだ。彼の議論を追っていると、ほんの身近な事柄にも多角的な問題が含まれていて、それらを一つずつ検討していくと、各側面が縺れ合いながら、意外な方向に転回するうちにも、その先に自ずから一段高度な問題意識が現れてくる、というような仕掛けになっている。これは、弁証を主とした議論と言うべきで、現代の弁証法的議論と言ってよいほどだ。

「これからの『正義』の話をしよう」と題した書物は、大学での講義をもとに書いたと著者自らがいっているが、その講義と言うのが討議型のものらしく、上述の弁証的な議論が縦横に転回されているという印象を受ける。これを読むと、読者は単に正義をめぐる政治思想についての知識を吸収できるばかりでなく、政治的なことがらを巡る、活発な議論に接することもできる。その議論のやり取りは、実に生き生きとしており、あたかもソクラテスと彼の弟子たちとの対話を彷彿とさせるが如くである。

サンデルの政治思想の特徴は、正義を重視することだ。早い話が、政治とは正義の実現であると考えている。そこで、正義とは何かが問題になるわけだが、サンデルは過去の政治思想の歴史の中から、正義をめぐる議論を大きく三つに区分して紹介している。ベンサムらの功利主義的議論、カントやロールズの自由を重視する議論、アリストテレスに代表される目的を重視する議論だ。サンデルはこれらの議論をひとつひとつ、具体的な事例をもとにして展開し、その特徴と限界を明らかにしていく。功利主義的議論とリバタリアンの議論に対する彼の批判には非常に鋭いものがある。

功利主義的な考え方は、英米圏の政治思想における強い伝統となってきた。だからそれを批判することは、英米圏の政治思想が孕む問題を明るみに出すことを意味する。その問題とは、簡単に言えば、欺瞞性である。この欺瞞性をサンデルは具体的な事例を用いて考察する。例えば、難破したボートで漂流している四人の人々がある。もはやなにも食べるものもなく、このままでは全員が餓死する。こういう限界状況の中で、一番弱っている人をr殺して、他の三人がその肉を食べることは許されるかという問題についてどう答えるか。功利主義的議論ならば、それは最大多数の最大幸福の原理から許されるということになる。功利主義者個々人は、そんな不道徳なことを、自分たちが容認するはずがないというかもしれないが、功利主義とは道徳ではなく効用を基準にしてものごとを判断する立場故、理屈の上ではそういうことになる。功利主義の理屈を徹底すれば、こういう極端なケースで、不道徳なことになるのは、ある意味当然の事態なのだ。こういうケースで道徳を持ち出すのは、功利主義から逸脱しているのであり、それでいまわしさを回避しようというのは欺瞞的だというわけである。

不道徳な議論という点では、リバタリアンも同じだとサンデルは言う。リバタリアンの議論とは、他人に迷惑をかけなければ何をやってもよく、また自分のことは何でも自分の自由にできるとする考え方だ。この議論は、無制約な金儲けを合理化してくれる点で、世界中の金持ちに人気のある議論だ。これについてもサンデルは極端な例をあげてその不道徳なところを批判する。例えば臓器の売買や自殺補助だ。リバタリアンの議論によれば、自分が合意して自分の臓器を売ることについては何の不道徳な点もない、ということになる。だがこういう考えを認めれば、合意に基づく食人も合理化されてしまう。この場合にも、自分が合意したうえで自分の肉を他人に食べさせるという点では、合意にもとづく臓器売買と何らの違いはなくなるわけだから。

サンデルの面白いところは、カントやロールズの議論をもリバタリアンと同じ自由中心主義として位置付けていることだ。だが、カントとリバタリアンは違うところもある、とサンデルは言う。それは、カントが道徳を問題にする点だ。カントによれば、人間は自由でなければならず、その点ではリバタリアンと同じ意見だが、しかしその自由は道徳によって支えられていなければならない。人は、不道徳なことを行う自由は持たないのだ。カントのいう道徳とは、人間に自然に根差している普遍的な原理(人権と言い換えられる)のことをいうようだ。

ロールズについてサンデルは、自由を重視する議論の中でもっとも洗練されたものだと評価している。自由と平等とはとかく両立しないもので、自由の追及の度が過ぎると平等が損なわれ、格差が生まれてしまう。しかし格差を縮小しようとして平等を推し進めようとすると、とかく自由が制約されることになる。このジレンマに、ロールズの議論はかなり答えている、というのがサンデルの評価だ。

ロールズは、有名な「格差原理」の議論を展開して、一定の格差を認めつつも、それが弱者の迫害に陥らないようなメカニズムを探求した。その理論はいわば、弱者に優しいリベラリズムとして、現代アメリカの、とりわけ民主党を中心にしたリベラルの方向性に、一定の哲学的な基盤を提供したものとして機能したわけである。

だが、ロールズの議論には、人間を抽象的で孤立した存在と捉える見方が支配的で、人間の社会的な面が捨象されているとサンデルは言う。その結果、祖先たちが犯した過ちについて、現代に生きる若者は責任を負ういわれはない、と言うような議論がまかり通る事ともなるが、果してそれでよいのか、とサンデルは問いかけなおす。そうではないだろう、やはり現代に生きる若者も、祖先の犯した過ちに一定の責任をとるべき局面もある。なぜそうなのか、それは人間が弧絶した抽象的な存在ではなく、共同体の一員としての社会的な存在である、という事実に根差している。

こういってサンデルは、自分自身の、共通善についての議論に入っていくわけである。




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