知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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民主主義と正義


1 シュミットをテクストに選んだ意義
 民主主義と正義を論じるにあたって、カール・シュミットをテクストに選んだことについて、諸君は奇異に思ったかもしれない。シュミットといえば、ナチスの桂冠学者と言われ、ヒトラーによる独裁政治を合理化した思想家だ。そのシュミットが、どのようにして民主主義と結びつくのか。ましてや正義とは最も無縁な思想家ではないか。そう諸君が思ったとしても無理はない。たしかにシュミットは、政治における独裁の効用について、楽天的な思想家だった。彼は、独裁のマイナス面よりもプラス面を高く評価しており、独裁こそがドイツ民族の勃興に不可欠な制度だと確信していた。しかし独裁こそ、今日最も不人気な制度であることは、誰もが認めるところだ。そんなシュミットが何故、民主主義と正義をめぐる議論の手がかりとなるのか、そう諸君が思うのも無理はない。

2 シュミットの政治思想
 シュミットの政治思想は、大きく分けて、三つの柱からなる。一つは敵-味方論、二つ目は民主主義論、そして三つ目が独裁論である。敵-味方論は主に、「政治的なものの概念」で展開されている。従来の政治学の支配的な考え方によれば、政治の本質は権力をめぐる闘争にある。その闘争の中で、その参加者たちが、権力の獲得を巡って敵-味方に分かれることはある。だがあくまでも、権力の獲得をめぐる闘争が政治の本質であって、敵-味方に分かれることは、その付随的な現象であるにすぎない。ところがシュミットは、敵-味方に分かれて闘争しあうことこそが政治の本質なのであって、権力はその闘争の副次的な産物としてもたらされるに過ぎないと考えた。発想を逆転させたわけである。シュミットがこういうわけは、人間というものは、本性からして闘争を好む生き物であって、放っておけば必然的に敵-味方に分かれて闘争するものだというシニカルな人間観がある。その点では、ホッブズやマキャベリの人間観と相似しているわけだ。
 シュミットの民主主義論は主に、「現代議会主義の精神的状況」のなかで展開されている。今日のテクストとして選んだものだ。この本の中でシュミットは、民主主義と自由主義との関係について鋭い分析を行っている。ここで自由主義というのは、立憲主義の原則とか基本的人権の擁護を内実にしたものだ。これと民主主義の中核概念である国民主権の考え方がセットになって、日本国憲法はじめ、欧米先進国の憲法モデルが作られている。それを簡単に言い表せば、民主主義の原理と自由主義の諸原則は不可分に結びついているということだ。立憲主義とか基本的人権の擁護などは、自由主義的原理というより、民主主義の原理として考えられている。それ故、たとえば今日の日本の右翼政権が、立憲主義をあざ笑う姿勢を見せると、メディアや政治学者などが口をそろえて民主主義の危機などという言い方をする。
 シュミットは、民主主義と自由主義とは、歴史的な経緯はともかく、本来的には全く別の概念だとした。歴史的には、イギリスの立憲政治とかアメリカの三権分立制度など、自由主義の諸原則と民主主義の原理とが結びついたことはある。だがそれはたまたまそうなっただけの話で、民主主義と立憲主義とは必ずしも結びつくものではない、とシュミットは主張した。シュミットによれば、民主主義は、立憲主義と結びついて穏健で多元的な政治制度をつくることもあれば、独裁と結びついて強固な中央集権政治をもたらすこともある。シュミットによれば、民主主義とは、統治の主体と客体とがどちらも民衆にあることが本質的な属性なのであり、その民衆の意見が一致すれば、どんな形態の政治制度とも結びつきうる。この場合、統治の主体が民衆であるということで、シュミットは代議制の擬制にある程度目をつぶっているところはある。だが、代議制も国民主権の一つの現れと広く認められていることを踏まえれば、そんなに重大な欺瞞とも言えないだろう。
 シュミットの独裁についての議論は主に、「大統領の独裁」の中で展開されている。民主主義は独裁と結びつくことがあることを前提にして、シュミットは独特の独裁論を展開している。独裁といえば専制政治のイメージが思い浮かぶが、シュミットの場合には、専制政治とは統治の主体と客体とが分裂して、統治者が被統治者を一方的に支配するところに本質がある。ところが、民主主義に基礎づけられた独裁というものがあって、そういう独裁は、その根拠を、専制君主の気まぐれではなく、民衆の意志のうちにもっている。シュミットがとりあえずイメージしているのは、フランス革命におけるジャコバンの独裁とか、ロシア革命におけるボリシェビキの独裁だが、それらは民主主義の手続きを踏まえて成立し、民主的に選ばれた独裁者が、民衆の名のもとに統治をおこなったという点で、民主主義に基礎づけられた合法的な統治形態だったと言える、そうシュミットは主張する。
 (付言)シュミットの独裁論としてはもう一つ、「独裁」があげられる。これは独裁についての歴史的・概念的な定式化を狙ったもので、シュミットはそれを通じて、当時軽んじられていた「独裁」の概念を明確化し、それによって独裁に政治的な場における居場所を授けてやることを、とりあえずの目的とした。それを足がかりにして、今後独裁をめざす動きに、一定の理論的根拠を与えようと意図したものだ。シュミットが、この本の中で取り上げているのは「委任独裁」だが、それを露払いとして、本物の独裁である「主権独裁」の概念を正々堂々と導入したい、そうした意図が行間から伝わってくる本である。



民主主義と正義(二)
民主主義と正義(三)
民主主義と正義(四)
民主主義と正義(五)


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