知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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民主主義と正義(五)


九 正義と共通善
 ロールズの議論は、正義という上位概念を持ち込んだおかげで、自由に一定の制約があることを認めた。人間は誰でも自由を無制約に行使できるわけではない。自分だけ幸福になれば、他人のことには無関心でもよいといった考え方や、他人の犠牲のうえで自分の利益を図るといったことは許されない。何故なら、そういうことは正義に反しているからだ。この場合、ロールズが正義という言葉で意味しているものは、ほとんど平等ということに近い。人間は、能力の上では不平等に生まれてくるものだが、だからといって、差別されてもよいということにはならない。まして、能力以外の要素、たとえば人種とか思想信条とかによって、差別されてはならない。人間は、自分の意志でコントロールできない要素について差別されるべきではない。何故なら、人間は基本的には平等に作られているものであって、それを否定することは人間の尊厳を踏みにじるものだからだ。ここからしてロールズの正義論からは、人間の自由の行使は、他人の自由を踏みにじらない範囲に制約されるという考えが生まれてくるわけだ。
 だが、こういう考え方は、突き詰めると功利主義と一致する。他人の自由を損なわない範囲で自由を認めるという議論は、一見して功利主義とは相いれないように見えるが、最大多数の最大幸福という功利主義のスローガンに限りなく近いものだ。ロールズの場合、ベンサムとは違って、少数派の犠牲のうえで多数派の利益が図られることを認めるような露骨な議論はしないが、それでも、社会全体の利益が最大化すれば、少数派の利益にもつながるといった(トリクルダウン的な)議論を展開する点で、功利主義の議論と似ているところがあるわけだ。
 また、ロールズの議論は、一定の制約の中とはいえ、自由を最大限に認める結果、たとえば合意にもとづく臓器売買とか、ひどい場合には、信託殺人を容認することにもなりかねない。ロールズの議論では、自由な意思に基づき、かつ他人の権利を侵害しない限り、どんなことでも許されるということになるからだ。
 こうなってしまうのは、ロールズのいう正義が、かなり形式的で、また個人主義的な人間観に立っているからだ。そう指摘したのはマイケル・サンデルである。
 サンデルは、ロールズの正義論には、人間を孤立した抽象的存在とする見方が優勢で、人間の社会的存在としての側面が軽視されていると批判する。ロールズの考え方を極端に推し進めれば、自分たちの先祖が行った行為の責任(たとえば戦争責任)を、子孫が引き受ける必要はないということになる。何故なら、その子孫たちは、自分の意志で行ったことではないことまで、その責任を負ういわれはないからだ。だが、果たしてそれでよいのか。完全な個人主義的な自由主義においては、そういうことになるかもしれない。しかし、現実的にはそれでは済まされないことが多い。何故なら、人間というものは、孤立した抽象的な存在ではなく、歴史を背負った存在なのであり、その歴史が先祖の犯した行為の責任をせまるからだ。
 これを言い換えれば、人間は単に功利主義的に生きるだけでは許されず、一定の道徳に従わねばならぬ、ということである。ロールズの議論が形式に流れがちなのは、彼が道徳を軽視しているからだ、そうサンデルはロールズを批判して、政治的な事柄をめぐる道徳の役割に注目する。
 その道徳というのは、人々を統合させるものであって、反目や対立を促すものではない。それをサンデルは共通善と呼ぶ。共通善を基準にすることで、正義の概念に実質的な要素が加わり、民主主義や自由をめぐる議論も活発化する。サンデルによれば、民主主義は、単にそれだけを見れば、統治の主体と客体とが一致することを意味するにすぎない。そこから、民主主義から独裁が生まれるといった、シュミットの逆説も生じてくる。そうなってしまうのは、議論を抽象的に進めるからだ。そうではなく、民主主義を制約する上位概念として正義というものがあり,それが共通善を目指すものなのだという前提を共有しておれば、シュミットのような結論は出てこない。自由をめぐる議論についても、それを共通善によって制約されたものと前提すれば、リバタリアンのような結論は出てこない。
 だがサンデルの議論にも弱点はある。それは、彼のいう共通善を、誰がどう設定するのかという問題だ。昔なら、キリスト教がそれを設定したかもしれない。しかし現代では、キリストに代わって、人間に共通善という目的を与えるものは見当たらない。したがって無理に共通善を設定しようとすれば、共通善をめぐる仮借のない戦いが展開することとなるだろう。形を変えた宗教戦争が始まるわけである。

10 結語
 以上、民主主義、自由主義、正義といった政治学上の諸概念について議論らしいことをしてみた。筆者がこうした議論を思い立った理由はいくつかあるが、その最も大きなものは、最近の政治の状況についての筆者の憂慮にある。
 アメリカでは、リバタリアニズムが横行して、極端な自由主義が国民の統合を妨げており、こうした流れは(グローバライゼーションを通じて)ヨーロッパ諸国の一部も巻き込みつつある。
 一方日本では、現職の総理大臣が、立憲主義は時代遅れだとうそぶいて、国民に対する抑圧的な姿勢を強めている。それでも民主主義の理念は否定しがたいと思ってか、国民の総意に基づいて、新たな国の形を憲法で定めたいと言っている。その国の形なるものが、明治憲法下の体制をよみがえらせようとするのは見え見えなのだが、面白いのは、それを民主主義的に実現しようと言っていることだ。
 以上の状況を前にすると、民主主義とか自由主義といった政治的な概念が、かなり混乱した形で使われていると思わざるを得ない。そこで、こうした概念を根本にさかのぼって考え直す必要を感じたわけだが、その際にシュミットを手掛かりとしたのは、彼ほど民主主義と自由主義との関連について深い考察を行ったものはいないと考えたからだ。
 もっとも、この議論を通じて、政治についての望ましい道筋が明らかになったかといえば、必ずしもそうではない。その辺は、諸君の批判に甘んじたいと思う。筆者としては、問題提起に向けて一石を投じることができただけで満足するほかはない。
 また、諸君の中には、政治をめぐる筆者の議論には階級対立の視点が欠けていると批判するものもいることと思う。それは一つには、シュミットを素材に選んで、かなり形式的な議論をしたことにもよるが、ここでの筆者の主な目的が、民主主義と自由主義とのかかわりを、理論的に明らかにすることにあったという事情にもよる。




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