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自由主義と民主主義:森政稔「変貌する民主主義」を読む


1980年代以降、いわゆる新自由主義的な潮流が政治の分野にも押し寄せてきたことで、民主主義の変貌が云々されるようになった。そうした流れのなかで、民主主義はもはや万能の思想ではなく、人間の自由をとことん追求する自由主義的な思想こそが時代をリードすべきだとする極端な考え方が生まれるまでになった。筆者はそうした潮流を、冷戦の終了によって、社会主義の権威が失われ、資本主義が唯一のものとして残った結果の現象であると考えていた。唯一の制度として残った資本主義が、もはや人間の平等とか生存への権利といった社会民主主義的要請を気にせず、資本家の欲望追及が無制限に許されるような時代になった。新自由主義はそうした時代の自己主張と考えたわけである。

森政稔著「変貌する民主主義」は、筆者のそのような考え方を、丁寧に整理するうえで、いろいろと有益なヒントを与えてくれる。また、もうすこし広い視野から、現在の政治思想の潮流を眺め渡すうえでの手がかりにもなる。さまざまな点で有益な書物だと感じた次第だ。そこで、この著作を手がかりにして、現代政治について、筆者なりに、いささかの省察を加えてみたいと思うようになった。

まず手始めに、民主主義と自由主義との関連について。

自由民主主義という言葉があるように(自由民主党というのもある)、自由主義と民主主義とは調和的に結びつくと考えられがちである。しかし、歴史が教えているように、この二つの概念は必ずしも必然的な結びつきを持っているわけではない、と氏はいう。自由主義のほうは、一定の思想的な内容を包含しているが、民主主義のほうは、もとはといえば政治思想というより、統治のあり方をさしていう言葉だった。英語でいうと、民主主義は democracy であって ism でないと言うわけである。であるから、民主主義には、自由主義とは別の、たとえば全体主義的な政治思想が結びつく場合もあるといって、氏はカール・シュミットの政治思想をその例に挙げている。シュミットは、民主主義を認めながら、民主主義から全体主義的な独裁政治の生まれる可能性について論じたのである。

ではどんな事情がこの二つ(民主主義と自由主義)を結びつけたかというと、それは社会主義への対抗がそうさせたのだ、というのが氏の見立てのようである。社会主義は人民民主主義と称して、全体的な統制と個人間の平等を重視したわけだが、それに対抗する形で、西側の資本主義社会は、個人の自由を強調して、自由主義と民主主義との調和的共存を図った。そうしなければ、社会主義との体制競争に勝てないと考えたからである。

ところが、この体制競争に資本主義が勝利し、いまや唯一の体制モデルとなった結果、民主主義と自由主義との調和的な関係に亀裂が生じ、両者の間にそもそも内在していた矛盾が表面に出てくるようになった。それも、自由主義的な要素が暴走することで、民主主義を形骸化するような方向においてである。

自由主義は、本来的に、政治の領域を縮小しようとする意図を持っている。市場の力を最大限発揮させるために、政府は極力小さくなければならぬ、というのがその主張だからである。ところが、民主主義というのは、本質的に政治的な現象である。それは政治的な空間における、人々の関係のあり方についての取り決めのようなものだからである。したがって、そもそもこの政治的な空間の縮小を意図する自由主義と、政治的な空間を前提とする民主主義とは、異なったベクトルを持っているといってよい。

自由主義の代表的な思想家として、氏はハイエクを取り上げている。ハイエクの主張は、ごく単純化して言うと、個人の自由こそが究極の目的であって、民主主義のような政治的な制度は、それを実現するための手段に過ぎないというものである。したがって、民主主義に自由主義が先立つというのが彼の主張の眼目である。自由にとって束縛となるような民主主義(そのようなものがあるとして)は、守るに値しないというわけである。これはこれで首尾が一貫した主張であるといえる。

ハイエクのこのような考え方の背景には、全体主義への彼の嫌悪が働いている。彼の主著「隷従への道」は、全体主義的政治体制に対する根本的な拒否を表明したものだったのである。彼は、場合によっては民主主義的の名のもとに全体主義が支配することもあるということに思い到り、それの原因として、政治の肥大化ということをあげた。政治が肥大化して個人のすべての生活に干渉する事態、それが彼にとって、全体主義の意味するところであった。したがって、全体主義を排除して個人の自由を回復するためには、政治は極度に縮小されねばならない。政治の拡大は、個人の自由にとって制約としてはたらく可能性が高いゆえに、それは縮小されねばならない、というのがハイエクの基本的なスタンスだったわけである。

同じように全体主義への深い嫌悪を表明した政治思想家にアーレントがある。だがアーレントの場合には、ハイエクと違って、政治的な空間を縮小するのではなく、むしろそれを拡大することを目指すべきだといった。この主張の背景にはアーレント特有の考え方があるわけだが、個人の自由を強調する点は、ハイエクと異ならない。ただ、ハイエクの場合、政治の空間を縮小することで個人の自由が確保されると考えたのに対して、アーレントの場合には、政治的空間において人々が自由に討議することで、個人の自由も花開くと考えたわけである。

ところで、ハイエクはいまや、自由主義の今日的形態である新自由主義にとって、その先駆者のような位置づけが施されており、彼の著作は新自由主義的政治家たちのバイブルとなっている。あのマーガレット・サッチャーも、ハイエクの著作を常に携帯していたと言われる(レーガンのほうは、読書にはあまり関心がなかったようだ)。

ところが、ハイエクの主張と新自由主義者たちの主張とは、似て非なるところがあると氏はいう。ハイエクは全体主義を批判するなかで、それをもたらした大衆社会状況への批判も行っているわけだが、今日の新自由主義者は、「ハイエクの嫌悪しそうな大衆民主主義的なものを極力利用することのうえに成り立っている」というわけである。たしかに、サッチャー、レーガン、小泉といった新自由主義的な政治家にはポピュリスト的なところが見られるが、そうしたポピュリズムが大衆民主主義と根を同じくしていることは、容易に見やすいところであろう。

また、ハイエクが伝統を尊重していたのに対して、新自由主義者たちには伝統破壊的なところも見られると氏はいう。ハイエクが「個人の国家権力からの自由を擁護するのに対して、新自由主義者の実際は、労働組合など抵抗勢力の解体に強力な国家権力を用い、犯罪や外敵からの脅威に訴えて警察力や軍事力の強化に努め、場合によっては戦争によって国内の支持を強化するという戦術もいとわなかった。言っていることと実際にしていることとが違うというのは政治における常道であるとはいうものの、新自由主義においては、原理面と実際の行動との間にはなはだしい対照が見られることは無視できない」と、氏は言うのである。

新自由主義がこのような勝手気ままな行動をとることができるのは、原理面では思想上の競争相手がいないことの、実際面では民衆のチェックが機能していないことの、あらわれであるとしか言いようがない。結局民主主義とは、市民(=被統治者)ひとりひとりの政治的自覚如何にかかっているのだというべきなのだろう





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