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職業としての政治:信念倫理と責任倫理


マックス・ウェーバーがミュンヘン大学での講演原稿に手を加えたものを「職業としての政治」と題して発表したのは1919年このことだ。ウェーバーはその翌年に死んでいるから、図らずも彼にとっては最後の仕事となった。しかし最後の仕事と言うには、この作品はペシミズムに満ち満ちている。

この作品のペシミスティックな色彩には理由がある。もとになる講演を行ったのは1919年の1月で、あたかもドイツは第一次世界大戦の敗戦ショックの真っただ中にあった。そんな祖国の状態を前にしてウェーバーは、第二次世界大戦後における日本の丸山真男ほど自覚的にではなかったが、何故ドイツがみじめな敗戦をしたのか、その原因について考えないわけにはいかなかった。

彼にはそれを深く掘り下げて考えるだけの時間が残されていなかったが、ひとつの手掛かりは容易に見つけることができた。ドイツの命運を担っていた政治家たちの資質である。彼らは政治家としての責任を本当に果たしたのか、もしそうではなかったのだとしたら、どんな事情が彼らを無責任に走らせたのか、こうした疑問が彼の念頭を占めたに違いない。「職業としての政治」は、そんな疑問に対するウェーバーの中間総括という意味合いを持っているといえる。

ウェーバーが政治家にとって特に大事な資質と考えたものは三つ、情熱、責任感、見識である。政治家には現実への情熱的な献身、それを不毛な興奮に終わらせないための責任感、現実に距離を置くという意味での見識が必要である。こうした資質を欠いた政治家は、政治の本質である権力を適正に制御できない。彼は自分の内なる敵に打ち勝つことができない。その敵とは「甚だ平凡な虚栄心のことで、これこそ一切の現実的な献身ならびに一切の距離~この場合、自分自身に対する距離~にとって不倶戴天の敵なのであります」(清水幾太郎、清水禮子訳)

政治家はまた強い倫理観に支えられていなければならない。その倫理観には二種類ある。信念倫理と責任倫理だ、とウェーバーは続ける。

この二つの倫理には共通した方向性があるように見えるが、実はその間には深い対立がある、とウェーバーは言う。「信念倫理の原則に従って行為する・・・か、それとも、自分の行為の(予知しうる)結果について責任を負わねばならぬという責任倫理の原則に従って行為するかというのは、測り知れぬほど深い対立なのであります」

政治家が則らなければならないのは責任倫理である、とウェーバーは言う。なぜなら政治と言うものは暴力性と分かちがたく結びついているからである。暴力をも伴う結果について責任を持たないでは、政治家は破壊と混乱を回避することができない。一方、信念倫理を優先させる政治家は、失敗の責任を自らとらず、その原因を自分ではなく他人のせいにしたがるものだ。

ウェーバーはこのようにいって、政治家に必要な資質について、あたかも学問一般を論じるような抽象的議論をしているように見えるが、実は、ドイツを敗戦に導いた政治リーダーたちへの厳しい批判意識を込めていたと考えられるのである。

ウェーバー流に言えば、ドイツを第一次世界大戦に導いた指導者たちは皆信念倫理に酔っていたのである。彼らは一様に崇高な理念を叫んでいたが、その理念がもたらす現実の結果については敢えて触れることがなかった。理念そのものが重要なのであり、その追求の結果現実にどのようなことが起こるかは重要ではない。仮に失敗しても、それは理念に問題があったからではなく、現実の方がおかしかったからだ。

こうした指導者たちがドイツをとんでもない方向に導いてしまったのだ。ウェーバーはそう言いたかったのだろう。しかもウェーバーにとって恐ろしいことに、将来のドイツにあっても、責任倫理をわきまえた政治家よりも、信念倫理を振りかざす政治家が大手を振るう可能性が高い。彼は論文の末尾で、何年か先のドイツがどうなっているだろうかと懸念を表しているが、実際にはそれを見ないで死んでしまった。若し生き延びていたら、ナチスの台頭を苦々しい思いで見たに違いない。

ところでウェーバーの二つの倫理の対立というテーゼは、現在の政治学理論でも一定の地歩を得ている。(信念倫理は心情倫理と訳されることが多い)

日本でも、信念倫理を振りかざす政治家は絶えない。そうした政治家たちは、自分の信念に基づいて行った結果がマイナスの事態を引き起こしても平然としていられる。彼らにとっては、それは自分の信念に問題があるからではなく、現実の方が間違っている証拠なのである。

まさしくウェーバーが信念倫理について指摘した無責任ぶりが、いまだに至る所でまかり通っているわけである。それがまかり通っているあいだは、ウェーバーの提起したテーゼは色あせることがないであろう。

それどころではない。最近の日本の政治を見ていると、ウェーバーがいうような信念倫理、責任倫理以前に、信念もなければ責任も持たない政治家ばかりが横行している。そういう連中が尊重するのは自分自身の保身とあからさまな利権だけだ。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2012
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