知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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幕末における視座の変革:丸山真男の佐久間象山論


丸山真男のこの小文は、佐久間象山の故郷松代市で催された講演会での話の内容を文書にしたものである。佐久間象山について話をしてほしいと頼まれて話したわけだから、自分から積極的にテーマに選んだのではないといっているのだが、それにしては深く掘り下げた議論が展開されている。丸山自身、かねてから象山について深い関心を抱いていたことの現れなのだろう。

佐久間象山と言えば、吉田松陰はじめ幕末の志士たちに大きな影響を与えた人物として知られている。松陰がペリーの船に密航しようとして捕らえられた時には、連座して責任を取らされ、9年間にわたって幽閉された。そしてやっと世の中に出てきたと思った矢先、京都で薩摩の人切川上彦齋に殺されてしまう。開国派の巨頭として、尊攘派から命を狙われていたにもかかわらず、目立つ格好で京都市内を練り歩き、刺客の格好の標的になったのだった。

その死にぶりから伺われるように、佐久間象山は型破りな男だったらしい。やたらと自信家で、人の云うことを馬鹿にして聞かなかった。そのために象山は聞く耳を持たぬという噂を立てられた。今日残っている象山の肖像には、耳のないものが多いそうだが、それは聞く耳を持たぬという日頃の象山の人柄を象徴しているのだと、いつか訪れた象山記念館の職員らがいっていた。

象山は人の云うことを聞く耳は持たなかったかもしれないが、世の中の動きは人一倍熟知していた。同時代人とは比較にならぬスケールの持ち主で、日本内外の事情をよく分析し、その上に立って日本の向かうべき方向について深い思索を巡らせた。その思索には、今日の我々をもあっとさせるような、深さと広がりがあった。丸山はこの小文の中でそういうのである。

象山の心を虜にした最大の問題は、当時の多くの憂国の士と同じく、日本の独立ということであった。隣国でかつ日本にとってはお手本であり続けた中国が、西洋諸国家によっていとも簡単に屈服させられてしまった。日本も一歩間違えれば同じ運命に見舞われるかもしれない。この未曽有の危機に直面して、どう振る舞えばよいのか、それが象山の最大の関心事だった。しかし象山は、その振る舞い方において、他の志士たちとは異なっていた。志士たちの殆どが攘夷を叫んでいる時に、象山はすすんで国を開く必要を説いた。それはある意味で命がけのことだったわけだが、その命がけのことを、象山はそれこそ命をかけて追及したのである。

象山は考える。鎖国は家康の時代に日本の独立を守るための手段として採用されたものだ。家康の時代には、それで日本の独立と平和が守られたことはたしかだ。しかし、今日はそうではない。この危機の時代に鎖国にこだわって国を閉ざすことは、西洋に対して遅れた日本の事情を改善することにはつながらず、かえって西洋によって侵略される危機を高めることにつながる。今鎖国にこだわることは、かつては独立と言う目的にとっての手段だったものを、目的そのものと取り違えることだ。鎖国にこだわれば、鎖国を続けることさえできなくなる。象山のこうした議論は、当時の尊攘家たちにとっては、到底理解できないことだったのである。

尊攘派の志士たちが、夷狄に向かって情緒的に反応している一方、象山の立場は極めてリアリスティックなものだった。彼が「外国を夷狄夷狄と呼ぶのは今後やめたほうが良い、これと対等の礼を以て交際すべきだ」と説いたのは有名なことだが、そういう傍らで、外国はあくまでも利に従った行動をしていると見抜いていた。それ故、日本が憎いと思って攻撃してくるわけではない一方、利ありとみれば、日本に何らの恨みがなくても攻めてくるかもしれない、ということができた。これは、「西洋諸国は貪欲で道徳を知らないから、かならず我が国を征服しにくるに決まっているという攘夷論者の論理とは違っている」と丸山はいう。象山は、情動に駆られてではなく、あくまでも現実のリアルな認識を踏まえた行動の必要を訴えているのである。

この例からうかがえるように、象山は幕末の危機に際して、世界についての新しい認識の必要を説いた。それはまた、旧来の世界像を変革していくことを意味した。世界を正しく知るには、「我々自身の既成のメガネ、伝統的な概念装置を吟味しなおす」ことが必要だ。でなければ、本当の問題がどこにあるかがわからない。ところが、象山の同時代人たちは、日本や中国を含めた東洋的な「うち」の論理を以て、「そと」である西洋を排斥するばかりだった。そこからは、正しい世界認識と、国の進路に関する正しい了解は出てこない。

「メガネというのは、抽象的な言葉でいえば、概念装置あるいは価値尺度であります」と丸山はかさねていう。「われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ず何らかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのメガネではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山が一番力説したところでした」

とはいっても、象山は既成の学問を否定して、まったく新しい学問を適用しようとするわけではない。「象山の場合、そういう当寺の認識用具の再検討ということは、古典の読み替えによって、儒教のカテゴリーを新しい状況の中で再解釈するというやり方で行われた」その結果、象山の思考には、着実性と弾力性とが結びつくこととなった。

問題なのは、漢学か洋学かということではなく、漢学の中の何が真理か、洋学の中の何が真理か、と問いかけるその態度なのである。だから象山は生涯朱子学を放擲せず、どこまでも朱子学の精神にしたがって、ヨーロッパの自然科学を理解しようとした。その結果、象山の説は世の中の動きから浮き上がることがなかったのである、と丸山はいいたいようだ。

その上で丸山は、「私どもが今日象山から学ぶとすれば、やはりあの時点において象山が当面した問題に対する対処のしかた、ものの考え方というものを、今日の状況に読み替えたらどうなるか、というふうに考えてみることが大事ではないか」といっている。

というのも、この論文の冒頭近くで、丸山は象山のような100年も前の時代の人間を評価するにあたって心すべき事柄をまずあげ、歴史上の思想家の評価が陥りやすい点について注意を促しているからである。陥りやすい点とは、思想家を、彼が生きていた時代から捨象して抽象的な存在として取り扱ったり、逆に思想家を、彼が生きた歴史的な状況に縛り付けて論じるようなやり方である。そうしたやり方からは、現在や未来に対する歴史のインパクトを正しく評価することができない、と丸山はいうのである。

その点、象山はその生き方からして歴史に深くかかわっていたし、また自分が生きていた状況にただ埋没するだけの存在ではなかった。象山の生き方そのものが、今日のわれわれに、もし彼が今日に生きていたら、どのような考え方をし、どのような行動をとるだろうかと、たえず問いかけを行わないではやまないような、近縁性を感じさせるのだ、と丸山はいいたいようなのである。


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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2013
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