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丸山真男の日本ファシズム論


丸山真男の小論「超国家主義の論理と心理」は、終戦後間もない昭和21年3月に書かれ、その年の5月に刊行された雑誌「世界」の創刊号に載るや否や大変な反響を呼んだ。8.15以前における日本の全体主義体制の本質を論じたこの論文は、続いて書かれた「日本ファシズムの思想と運動」(昭和22年)、「軍国支配者の精神形態」(昭和24年)とともに、日本ファシズム研究の古典的な業績とされるようになった。

こんな訳で、丸山がこの論文の中で展開した日本ファシズムの本質規定は、その後の研究者たちの日本ファシズム論を呪縛し続けてきた。筆写もそんな呪縛を受けた一人であることを白状しないわけにはいかない。だが、丸山の議論に基づいた日本ファシズム論にはどこか足りないものがあるのではないか。そんな疑問をずっと抱き続けてもきた。そこで、その足りないところを発見しようと思って、「現代政治の思想と行動」の巻頭を飾るこの三論文を久しぶりに読みなおしてみた次第である。

まず気づいたことの第一は、丸山が「日本ファシズム」という言葉を使いながら、何故「ファシズム」という言葉を使うのかについて、ほとんど説明していないということだった。第一論文などは、戦前の日本の政治体制を「超国家主義」と呼び、「ファシズム」という言葉さえ使っていない。その超国家主義という言葉も、丸山によってはじめて提出された概念ではなく、連合国による概念規定を借用したかのような書き方をしている。

第二論文では、「日本ファシズム」という言葉を使っているが、ここでも「ファシズム」についてのキチンとした概念規定はなされていない。丸山は、この論文の「まえがき」で、自分の与えられた題が「日本ファシズムの思想と運動」であったから、これからその題名にそった話を展開したいとだけ述べている。つまり日本ファシズムと言う言葉は、理論的な検証を経て、厳密な概念として形成されたものではなく、なんとはなしに、学者の間で使われるようになったから、自分もそれを踏襲する、とでも言いたげなのだ。

やはり、日本ファシズムという言葉を使うからには、本家本元たるイタリアのファシズムや、その同盟者であったドイツのナチズムとの比較において、日本を含めた三国の一時期の政治・社会体制が、何故ファシズムという言葉でくくられることができるのか、理論的にあきらかにする必要があるのに、それがなされていない、そんな印象を改めて受けた。

だから丸山が、日本ファシズムの特殊性なるものを論じるとき、それがファシズムというものの共通性を踏まえた地方的な特殊性なのか、それとも、そもそも共通性などと言うものを超越した無媒介の特殊性なのか、そこのところが不明瞭になる。特殊性ばかりを強調したいのであれば、なにもファシズムなどという紛らわしい言葉を使わずに、「超国家主義」といった言葉で十分間に合うわけだ。

とはいっても、日本の超国家主義なり軍国主義といわれるものが、イタリアのファシズム運動やドイツのナチズム運動と共通する部分を持たないわけではない。全体主義と言う言葉で形容されるような、抑圧的な政治・社会体制がそれである。この体制は、独裁的な政治システムのもとに、対内的には自由や人権の抑圧、対外的には侵略戦争の追及といった共通の特徴を持っている。だから、日本のファシズムを論じる時には、イタリアやドイツと共通する部分を抽出して、それをファシズムと言う概念に昇華させ、その上で三国それぞれにおける個別の特殊性を論じるという方法をとるべきであったろう。

その共通性をおさえるという前提がないと、日本ファシズム論は拡散してしまう危険がある。同じくファシズムといいながら、相互の違いばかりが強調されると、それでは何故ファシズムと言う言葉を使うのか、そこのところが曖昧になるからでる。

とはいえ、日本のいわゆるファシズムが、イタリアやドイツのそれに比べて、あまりにも矮小であったとする丸山の指摘は、情けなくなるほどに的を得ている。ドイツでもイタリアでも、ファシズムというのは自覚した主体による、それなりの責任を伴った運動だった。しかもその運動は、下から沸き起こって政治権力を簒奪するという過程を伴っていた。これに比べると日本のファシズムは、責任の自覚に欠けた連中による無責任な運動で、しかも現に権力を行使している連中が、その権力を究極的に肥大化させ、国民全体を飲みこんでしまう上からの動きだった。

こんなわけだから、ニュルンベルグと東京のそれぞれの戦争裁判に臨んだナチスの指導者たちと日本の軍国指導者たちの言動を比べた時に、丸山はいかに日本の指導者たちが阿呆で矮小な奴らだったかとため息をつかざるを得ないのだ。そうしたため息は、筆者もまた共感するところである。

日本の軍国主義を推進した指導者たちが、いかに無責任だったかについては、昭和史の研究者たちが詳細にあぶりだしているところだ。半藤一利さんの一連の研究を読むと、そうした軍国指導者たちの無責任ぶりが、じりじりと伝わってくる。半藤さんの怒りは、筆者のように軍国主義を体験したことのない人間にも伝わってくるのだ。




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