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異常の構造:木村敏の精神病理学


分裂病(統合失調症)などの精神病は、とりあえずは精神の異常として捉えられる。異常というからには、正常が前提とされているわけである。正常な精神状態というものがまずイメージされていて、そこから逸脱しているものが、正常の反対としての異常という具合に定義される。たしかに、異常とは正常の反対のように見えるが、はたして本当にそうか。もしそうなら、異常の反対が正常だということになるが、本当にそうなのか。こんな疑問を提起しながら、異常とは必ずしも正常の反対ではない、ということについて木村敏は論理的な操作をしながら解き明かしていく(木村敏「異常の構造」)。

木村は、反対関係にある対概念として、多―少、大―小、長―短といったものを持ち出し、それらが互いに相手を排除している関係にあると指摘する。これらの対概念の間には、多=非少、大=非小、長=非短の関係が成り立っている。多でありかつ少であることが同時に成り立たないような関係にある対概念を、形式論理学では矛盾概念というが、木村はそれを反対概念と定義して、実質的には矛盾概念として扱っているわけである。

そのうえで木村は、正常と異常とがどのような関係にあるかについて、吟味を加えていく。常識的には、正常と異常とは、木村の言う反対の関係、形式論理学で言う矛盾の関係にある。つまり、正常であってかつ異常であることは成り立たない、異常ならばそれは正常ではない、という具合に捉えられている。しかし、果たしてそうか、と木村は疑問を提起するわけなのだ。

正常とは、よくよく考えてみれば、社会の(圧倒的)多数のものによって受け入れられているような事態だと言い換えることができる。それに対して異常とは、社会の圧倒的多数者の目に、自分とは異なっているという違和感を感じさせるものをいうのではないか。つまり、多数者にとって自然に思える事柄が正常な事態だとして無条件に前提されているがゆえに、それから少しでも外れた事態が、正常の反対としての異常として受け取られるのではないか。そうだとすれば、正常と異常との関係は、相対的なものだということになる。

そのような相対的な否定の関係を、形式論理学では反対概念といっている。これは、同じ類概念に含まれながら、互いにその両極に位置するような関係である。例えば白と黒は、どちらもナチュラルカラーの一員でありながら、その内部では互いに両極に位置している。

木村は、形式論理学の概念装置は使っていないので、クリアな言い方にはなっていないが、正常と異常とが相対的な関係にあるということは、これが矛盾概念ではなく、反対概念の関係にあるといっているのと同じことになるわけだ。

正常と異常とが、相対的な反対関係にあるにかかわらず、それが互いに絶対的に排除しあう矛盾概念のように取り扱われていることには、どんな背景があるのか、と木村は議論を進めていく。

それは、我々の社会が、異常を抱擁するだけの寛容さに欠けているからではないか、というのが木村の立場のようである。しかしそれにも相応の理由がないわけではない、とも木村は言う。その辺が、木村の面白いところだ。

われわれ正常人の生き方を支えているのは、同一律の原則である。A=Aとあらわされるこの原則は、人間の認識や行動を根本から支えている基本原則である。ところが、分裂病を典型とする精神病理にあっては、この同一律の自明性が崩れてしまう事態が起こる。同一律の自明性が崩れてしまうから、対象的世界が統一したイメージを結ばず、それどころか自分自身の自己同一性まで崩壊してしまう。「分裂病」という名称自体が、自己同一性が成り立たないで、人格が分裂している事態をあらわしている言葉だし、最近になって使われるようになった「統合失調症」という言葉は、まさに自己同一性が成り立たない事態をずばり表現する言葉である。

こうしたわけで、精神病理に見られる異常というのは、正常な人間にとっては、自己の否定につながるような不気味さを感じさせる。それゆえ、それを正常からの相対的な逸脱だなどといって済ませるわけにはいかない。社会から排除される必要がある、ということにつながってしまうのだ。しかしそれも、ある意味で無理はない。そう木村は割り切っている面もある。

社会が異常を目の敵にし、それを排除する傾向を強く帯びていることは、フーコーも指摘しているところだ。フーコーもまた、精神疾患を例に取り、社会がいかに狂気を夢中になって排除してきたか、その歴史を詳細に跡付けた。そうすることによってフーコーは、人間社会というものは、排除の論理を通して社会内部の統合を図ろうとする根強い傾向をもっているとしてきした。フーコーの場合、自分自身が性的倒錯者として差別された経験があるから、そうした問題意識が先鋭化したのであろう。

ともあれ、正常と異常との対立を、合理―非合理、常識―非常識の対立同様、絶対的な矛盾関係ではなく、相対的な反対関係、木村の言葉で言えば「見掛けの対立」として捉えたことは、木村のもっともユニークなところだ。そう捉えることで、我々の社会には、所謂「こころを病んでいる人々」の居場所もありうるのだ、と木村は言いたいのだろう。




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