知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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自己と他者:R.D.レインの反精神医学


R.D.レインは、1960年代から70年代にかけて精神医学界に旋風を巻き起こした人だ。日本でも、「引き裂かれた自己」、「自己と他者」、「狂気と家族」などの著書が翻訳・紹介され、精神病理学の世界に一定の影響を及ぼした。その基本的なスタンスは、分裂病(統合失調症)に典型的な精神病の患者を、社会から隔離するのではなく、むしろ社会の中で、人間関係にかかわらせることを通じて治療すべきだと主張することにある。何故なら、精神病とは人間関係によって引き起こされる病だ、というのである。

こうしたスタンスの背景には、彼独自の人間観がある。人間というものは、当たり前のことであるが、他の人間とのかかわりあいを通じて、人間としての自己を作り上げていく。西洋の哲学的な伝統が考えているような、まず自己というものがあって、対象的世界があると考えるのは間違いだ。そのような考え方においては、自分とは異なった他の人間も、対象的世界の一つの要素に過ぎなくなってしまう。しかし、実際にはそうではない。人間というものは、他者とのかかわりがなければ、人間となることができないのである。他者とのかかわりあいを通じて、そこからまず、他者の存在を理解するようになり、それとの反照的な関係において、自分の存在を了解していく。人間は、このような他者との強いかかわりあいを通じて、人間となっていく。そうレインは考えるわけなのである。

他者とのかかわりあいから生まれてくるのは、単に認識論的なレベルの問題領域だけではない。認識論的なレベルとは、世界の解釈にかかわるという意味である。我々人間は、他の人間とのかかわりあいを通じて、世界をどのように解釈してよいのかを学んでいく。われわれが意味と言っているのは、人間としての我々一人が、世界をどのように解釈すべきなのか、についての指針を与える鍵なのである。

しかし、他者とのかかわりあいから生まれてくるのは、認識論的レベルのものだけではない。自分を一人の人間として、確信をもって感じることができるような、いわば精神的な安定性、それもまた他者とのかかわりあいから生まれてくるのである。他者から、一人の人間として認知され、受容される。他者の目の中で自分の存在を確認できる。そういった経験が積み重なることで、人間は自分を、他の人間と同じような一人の人間として、確信できるようになる。それを、当世流行の言葉で「自己同一性」と言ってもよい。自己同一性とは、ともすれば人間ひとりひとりの個人的な領域に属する問題のように履き違えられているが、実際には、他者とのかかわりあいを舞台にして、そこから育ってくる問題領域なのだ。

「すべての人間存在は、大人であれ子供であれ、意味、すなわち他人のなかでの場所を必要としているように思える。大人も子供も、他者の目の中での<境地>を求め、動く余地を与えるところの境地を求める」(「自己と他者」志貴春彦、笠原嘉訳、以下同じ)

こうであるから、一人一人の人間にとって、彼が自己同一性を確信できる存在として自分を形成していくうえで、他者とのかかわりあいがいかに重要か、を理解しなければならない。分裂病を典型とした精神病は、この他者とのかかわりあいが、様々な理由でうまく成り立たず、その結果強固な自己を形成することに失敗した事態のあらわれなのである。人が、自分自身を価値あるかけがいのない存在として受け入れられるのは、自分が他者とのかかわりあいの中で、意味のある存在だと実感できるからなのだ。

「自分のすることが誰にとっても重大なかかわりがない場合に、誰が自由を選択するだろうか。少なくともひとりの他者の世界のなかで、場所を占めたいというのは、普遍的な人間的欲求であるように思われる」(同上)

それゆえ、自分がいかなる他者にとっても、意味のない存在なのだと思わざるをえないような事態は、精神にとっては、非常に深刻な事態だといわざるをえない。人はそのような事態に安住できない。そのような事態からもたらされる精神的な境地は、「ニセの境地」であり、「安住しえない境地」である。

「自分自身を他者にとって意味あるものとして経験しえないがゆえに、彼は自分で他者の世界のなかに妄想的に意味ある場所をつくり上げるのである」(同上)

そこで、どのような事態が、ニセで安住しえない境地を生み出すのかが、精神病理学的には、問題となる。レインは、それを歪んだ人間関係に求めるわけだが、そうした歪んだ人間関係の中で、彼が最も重視するのは、家族関係である。彼は、分裂病を「家族関係の病」と呼んでいるほど、家族のゆがんだ関係が、いかに人間を破壊するかについて、こだわりを持った。

歪んだ家族関係の中で、彼が最も注目したのは、ベイトソンが「ダブルバインド(二重拘束性)」と呼んだものである。ダブルバインドとは、あることをしなさいと指示しながら、同時に、それと矛盾するようなメッセージを出し続けるような事態を指して言う。レインは、それを次のように簡単に定義している。

「ある人間が、他の人間に、お前はなにかをなすべきだと伝え、同時にもう一つの水準でお前はそれをなすべきではないとか、お前はそれと相いれないほかの何かをなすべきであると伝える。状況は、さらに、彼もしくは彼女が、その状況から脱出したり、それについて批評することによってそれを解消したりすることを禁じる命令によって、<犠牲者>に対して封鎖される。<犠牲者>はそれゆえ、<安住しえない境地>に置かれる。彼は、破局を起こさずには身動きができない」(同上)

こうしたメッセージがもっとも深刻な影響を及ぼすのは、親が子に出す場合である。親が、一方では私にキスしてといって子どもに頬っぺたを差し出しながら、子どもがそこにキスしようとすると、キスして欲しくないというメッセージを出す。子どもは、親の言うことをどう受け取ってよいのかわからなくなり、混乱する。こうした事態が、恒常的に繰り替えされると、その親と子どもの間には、親密な関係は成立してこないだろうし、子どもにとっては、親にかぎらず、およそ人間というものに対する信頼感の成立する条件が壊されるということにつながる。

このように、精神病発症の原因を人間関係(特に家族関係)の破綻に求める見方は、ドイツやフランスなど大陸系の学説においては珍しい事ではなかったが、英米系の精神病理学のフィールドにおいては、どちらかと言えば異端と言ってよかった。最近では、大陸系においてさえも、精神病を脳の異常として捉える見方がますます強まってきている。そんな中で、レインの展開したような見方が、果してどれほどの意義を持ちうるのか、検証に値する問題だと言えるのではないか。




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