知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カフカ「変身」を読む


「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっていることに気づいた」(原田義人訳)。カフカの小説「変身」は、こんな衝撃的な文章で始まる。読者は一気に物語の本筋に引き入れられる。ある朝目が覚めたら、一匹の巨大な毒虫に変身していたとは、いったいどういうことなのか。人間が突然、わけもわからないまま毒虫に変身してしまう。考えただけでも恐ろしいではないか。だれもがそう思うに違いない。

それに毒虫とはいったい何か。どんな形をして、どんな生態の生き物なのか。毒虫というと、我々普通の日本人は、サソリとか毒グモを思い出す。しかし文章の雰囲気からして、どうもそれらしくは見えない。この生き物には背中らしいものがある。そして背中と腹とが身体の反対側に別々についているようだ。しかも背中は、そんなにも固くはないにしても、一応腹よりは固い物質でできているらしい。そこでカブトムシのようなイメージを思い浮かべるが、カブトムシは毒虫ではない。しかし小説の半ばをすぎたところで、女中がザムザをカブトムと呼んでいるところを見ると、どうやらそれに似た形の生き物であるらしい。しかし、カブトムシなら角が生えているはずなのに、この生き物にはそれらしきものは出てこない。だからカブトムシではないようだ。とすれば、なにか。カブトムシのような形をしていて、頭に角がない生き物、といえばゴキブリが思い浮かぶ。

この部分は原文では Ungeziefer となっている。この言葉には、毒虫のほかにゴキブリという意味もある。だからカフカはゴキブリをイメージしながら、この小説を書いたのだと思われる。そう解釈すれば、虫に変身したグレゴールの行動がだいたい納得できる。完全に納得できないのは、虫になったザムザの大きさと、身体と頭との関係だ。大きさについていえば、一方ではソファの下に入りきれないほどの大きさだと言っておきながら、他方では、鳥かごのようなものに入れて簡単に引越しできるほどの大きさだとも言っている。どうも大きさが特定できない書き方をカフカはしている。また、身体と頭との関係についても、頭の形はどうやら人間のものらしいのだが(でなければザムザの家族がこの虫をグレゴールだとは認識できないだろう)、その頭がゴキブリの身体にどのように接続しているか、について明瞭なイメージがわかない。しかし読者としては、何らかの確固としたイメージを思い浮かべながらでないと、小説を読み進むのに難儀を感じるだろう。そこで筆者などは、一応小柄な人間ほどの大きさで、胴体の先端に人間の頭をつけ、胴体そのものは、ゴキブリの形をした生き物、をイメージしながらこの小説を読んだ次第だ。

次に読者が悩むのは、人間がなぜゴキブリに変身したのか、その理由というか、必然性みたいなものだ。これについてもカフカは明瞭な言葉で説明していない。いったいどんな理由があるからと言って、人間がゴキブリに変身しなければならないのか。だからこの変身には理由も必然性もないのだ、といわんばかりである。だがいくらなんでも、人間がゴキブリに変身するというのは、ショッキングなことだ。現実にありえない出来事、であることは間違いない。ありえないというのは、本質的な意味においてだ。だが非本質的な意味においては、ありえないでもない。たとえば、御伽噺の中でなら、人間はゴキブリにでも、なんにでも変身できる。

でもこの小説は御伽噺ではないらしい。御伽噺なら、話の冒頭にそう断るのがエチケットというものだ。たとえば日本では、御伽噺を始めるときには、「むかしむかし、おじいさんとおばあさんがいました」という具合に、これからするお話が架空の作り話であることを白状してから始めるのが礼儀になっている。いきなり話し始めて、現実と虚構との区別がつかなくなっては、こどもの教育上悪い影響を及ぼすことになりかねないからだ。だいだい御伽噺というものは、こどもの教育という目的をも持たされているものなのだ。

要するにカフカのこの小説は、子どもを相手にした御伽噺ではない。大人の読者を意識した近代風の小説である。その近代風の小説の中で、人間がゴキブリに変身したという話をカフカは展開する。いったいどういうつもりでそんなことをするのか。

一つの解釈としてありうるのは、人間のゴキブリへの変身を、隠喩とか象徴作用とかに関連付けるやり方だ。これを隠喩として捉えれば、人間とゴキブリとの間にはある共通する特徴があって、それを腑分けすることで、人間の生き方の本質が見えてくるに違いないという信念をカフカが抱いていたというような話になってゆくと思う。また、これを象徴作用と捉えれば、ゴキブリの生き方が人間社会のあり方を象徴的に表現しているというふうに話が発展してゆくだろう。

そこで、この小説をある種の隠喩の例だと仮定してみよう。ゴキブリが人間の隠喩とされるについては、ゴキブリの中に人間に似た何物かがなければならぬ。それは何だろうか。イメージとしては色々思い浮かばないことはない。無思慮であるとか、不潔であるとか、貪欲であるとか、生命力があるとか、ネガティブからポジティブまでさまざまな様相を思い浮かべることができる。ではこの小説では、なにが前景化しているのだろうか。みじめさとか、ちっぽけな命とかいったものだろうか。たしかにゴキブリに変身したグレゴールは、惨めでちっぽけな存在として描かれている。しかし、それはゴキブリに変身したことの反射的な効果であって、人間とゴキブリが惨めさとちっぽけさとを共有しているということではないのかもしれない。

次にこの小説を象徴作用の例として考えてみよう。すると、ゴキブリは人間の何を象徴しているかという議論になり、隠喩のようにゴキブリと人間とが何物かを共有することは問題にならない。この小説についていえば、ゴキブリが象徴しているのはグレゴールという人間のまずい立場だといえなくもない。つまりグレゴールは、何らかの事情で突然まずい立場に陥ってしまい、その結果破滅せざるをえなくなった。そのプロセスをゴキブリの苦悩に象徴させて描いたのが、この小説の本質なのではないか。そんな見方が成り立たないわけでもない。グレゴールが陥ったまずい立場というのは、この小説を読んでいると、ゴキブリの立場として伝わってくるのだが、その立場を人間としてのグレゴールを象徴したものだと捉えれば、この小説全体を象徴作用の例とみなすこともできなくはないだろう。

この小説を読んでいると、グレゴールはゴキブリに変身した結果まずい立場に陥ったと(表向きは)読めるのだが、実はグレゴールはすでに小説の始まる前にまずい立場に陥っていたのであって、それがある朝突然ゴキブリへの変身という形で象徴的に現われた、と読めなくもないわけである。

こう見てくると、この小説はゴキブリという小動物に、人間の生き方なり運命のようなものを象徴させたものだと捉えることもできそうである。カフカは他に、少なくない数の短編小説で、小動物を登場させている。それらの小動物にも、人間のある面を象徴しているようなところがあるかどうか、これは注意深く読んでゆく必要がありそうだ。ドルーズ&ガタリは、カフカには隠喩への嗜好はない、というより隠喩については否定的だった、と言っているが、では自分の小説でこんなにも多く動物を登場させたのは、隠喩の例としてでなければ、どういうわけなのか。それを考えると、象徴作用をめぐる以上の考察にも、いささかの意義を認められそうである。




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